文明学科教授
大平秀一
マチュピチュ遺跡は、クスコ(標高約3400m)から徒歩で3日、ウルバンバ谷の中(標高約2300m)に位置しています。1911年7月23日、イェール大学の経済学者ハイラム・ビンガムが、その前日にメルチョル・アルテアガという農民から情報を得て連れていってもらい、その姿を我々の前に顕わしました。ビンガムは、スペイン人が書き残した情報に基づき、この遺跡を「インカ最後の都」か「インカ誕生の場」と考えました。いずれの解釈も、誤りです。現在では、第9代インカ王パチャクティの親族集団(パナカ)の財産・所有地とする説が有力となっています。

遺跡の中心部分は、2つの山に挟まれた尾根の上に建設されています。北側の山はワイナ・ピチュ(若い山)、南側の山はマチュ・ピチュ(老いた山)という名前です。遺跡紹介でよく用いられる写真の背後に聳える高い岩山が、ワイナ・ピチュです(写真1)。尾根の北側(ワイナ・ピチュ側)には宗教・儀礼施設と居住区・作業場・倉庫等、そして南側(マチュ・ピチュ側)には、農業用テラスが配されています。
王とその親族集団は、マチュピチュ遺跡に住み着いていたわけではありません。気温や降雨量等より、乾季に相当する5~9月の間に一時的に滞在したという説が提示されています。通常は王族専属の労働者(ヤナ)が住んでおり、その数は500人前後にすぎなかったと見積もられています。出土遺物等より、建設時期は15世紀半ば頃と判断されます。1532年にはスペイン人が上陸してくるため、機能していたのは100年にも満たない期間と考えられます。ビンガムは、1912年に100弱の洞穴・岩陰の発掘調査を行っており、多数の遺骸や副葬品が出土しています。2003年にはこれらの再分析がなされ、遺骸は計174体(男女比約3:2)で、ティティカカ湖周辺域ならびにペルー中央海岸・北海岸の人々が含まれており、意外にもほぼ半数は海岸部の出身者と考えられています。
尾根上にもかかわらず、北側と南側(農業用テラス)の境界付近には、「バーニョ・デル・インカ」(インカの浴場)というニック・ネームで呼ばれることもある、水をめぐる施設が東西に連続して配されています。その水は、ワイナ・ピチュ方向からひかれていました。水は、生きとし生けるもの、みんなのものです。その水がなければ、いかなる存在も生を維持することはできず、動物であろうが植物であろうが、最後はみな干からびてしまいます。アンデスの農業は基本的に天水でなされますが、雨の有無は常に人々の心配の種です。必要な時に水を流せるよう、畑地には水路を配しているのが一般的です。クリスタルのように煌めきながら流れる水・その音は、豊かさや安定を象徴していると思われます。「バーニョ・デル・インカ」は、実用以外にもこうした象徴的意味も伴っており、各地のインカの遺跡にも配されています。
アンデス先住民の主要な言語の一つケチュア語では、「黄色」を「ケユ」とか「カルワ」といいます。「カルワ」は人間の名前にも用いられ、例えば17世紀初頭の文書では「タムタ・カルワ」(黄色い羽毛)という若い女性の名が示されています。一方で、この「カルワ」には「萎れた/枯れた」といった意味もあり、その派生語も含めて明らかに「病気」や「死」と関連する意味合いもみてとれます。水が行き渡って瑞々しく青々と茂る草・作物・植物は、引っこ抜いたりちぎったりすると、やがて黄色に変化してしまいます。死と関わる意味が付与されているのは、こういう感性・感覚に基づくものです。
水を吸って生きている植物・葉は、みな弾けるようにプリッ・プリッとしていて(=生き生きとしていて)、上を向いています。ところが、死んでしまうと「ふにゃ~」・「だら~ん」となって萎れてしまいます。そして完全に干からびると、硬くなってしまいます。植物を例に挙げましたが、人間・動物も同じ感覚で捉えることができるでしょう。
その水は、上から下に流れ落ちてきます。その上を辿っていくと、山・丘があり、多数の山・丘から流れ落ちてくる水が集まって川となり、最後は海に注ぎます。実際にアンデスの山に向かうと、水がちょろちょろと湧き出ているところもあれば、雪山の岩壁から飛沫をあげて大量の水が噴き出ている場所もあります。また山は動じることのない存在で、どこからでも目にすることのできる景観の一部です。こちらから見えるということは、向こうからもこちらが見えます。アンデスの村々にしばらく滞在していると、いつも山々に見守られているようにも思えてくるのです。こうした感覚・イメージを基にすると、山や丘が信仰の対象となることも容易に理解できようかと思います。アンデスでは、生きとし生けるものすべては、山の神々の力で生を受け、育ち、生き、そして最後はやはり山の神々の世界に戻るのです。死者・祖先の堆積が、山の神々と化していると捉えても間違いではないようにも思います。
その山の神々は超大な力をもち、宇宙を司る存在です。世界のすべての神観念と同様に両義性を帯びており、良いことにも悪いことにも作用します。豊穣や繁殖(生誕・生育・成長)、生、健康、安全、勝利、幸福等はすべてその作用によるものである一方で、不作・生まれ育たないこと、死、病気、危険、敗北、不幸などにもまた作用します。そして山の神々そのものにも、こうした現象は起こり得るのです。よって人間は、供物を捧げて祭祀・儀礼を行い、神々の面倒をみてあげる必要があります。そうすると、山の神々は力・活力(カマック)・エネルギーを維持し、よいものをもたらしてくれる。つまり、あげたりもらったりと、人間と神々の間に互酬関係をみてとることもできます。
地域によって異なりますが、山の神々はワマニ、アプ、アウキ、コトなどと総称されます。これ以外に、どんな小さなものでもすべての山は名前を有しており、その名前で呼ばれることも一般的です。私は、通称で「うそつき」と呼ばれている山も見たことがあります。いくら祭祀・儀礼をして供物を捧げても、お返しがない/少ないが故のニック・ネームでしょう。山々は、大地が人格化された存在とも捉えられています。したがって、男もいれば女もおり、当然子供もいる。まったく人間と同様の特徴を帯びており、生まれ、病み、死に、食欲・性欲、感情・喜怒哀楽があり、話しもすればいたずらもします。「女好き」と考えられている山も、見たことがあります。その麓にある村は女性の比率が極めて高く、その山がそうさせていると考えられています。
アンデス先住民世界において、宇宙は「この世界」(カイ・パチャ)と「下の世界」(ウフ・パチャ)に分けて捉えられています。「この世界」は、いわば地上世界ですので、生きとし生けるもの、そしてこの世のあらゆるものが存在する場所です。一方「下の世界」は、山の神々・死者・祖先の世界です。二つの世界は、特別な場所で繋がってもいます。洞窟・洞穴、岩の裂け目・割れ目、岩陰、湖・泉・沼、湿地帯、川などがそうした場所となり、儀礼的な意味が付与され、実際に祭祀・儀礼がなされる場ともなります。
「若い」、「老いた」という形容がなされると、現代に生きる我々は、「若い」は20歳前後、「老いた」はかなりの高齢など、当然のことながら人生の時間の尺度で捉えてしまいます。しかも丘あるいは山に付された形容ですので、その尺度で生き生きした状態の山、力が弱まりつつある山などをイメージすることもできます。ワイナ・ピチュ(若い山)は尖っていますので、男性器がエレクトした状態あるいはそうなり得る年齢・世代とイメージするのも極めてアンデス的思考・発想です(アンデスの神話的語りあるいは山の神々と関わる要素・山の形では、時に女性器が意識されます。日本とまったく同様です)。一方で、マチュ・ピチュ(老いた山)は、形状をはじめ、あれこれと我々の観念をあててみてもどうもしっくりイメージできません。
マチュ・ピチュの「マチュ」(老いた)には、実は「祖先」という意味もあります。この世界から一度消えた存在ですので、幽霊・亡霊と捉えることもできます。我々の感覚では、この世に誕生して呼吸を止めるまでの時間が「生きている」と捉えられます。そして呼吸を止めると「死んだ」と言われ、その人・存在が「無」となってしまったかのように解釈されます。とろころがアンデス世界では、「無」にはなりません。下の世界・別の世界において、存在し続けているのです。ビンガムが、「下の世界」に通じる岩陰において、計174体の遺骸を発掘したと述べました。実は、その埋葬場所の大半は、マチュ・ピチュの麓にある岩陰なのです。したがって、「ワイナ・ピチュ」(若い山)・「マチュ・ピチュ」(老いた山)という対になった観念を捉える際には、生死の境目をも飛び越えた「人生」をイメージする必要がありそうです。
山の神々・死者・祖先は、いつも「この世界」にもやって来ます。時には、「下の世界」と「この世界」を仲介するシャーマンによって呼び出されることもあります。播種の時期、子供の「髪切り儀礼(ルトチコ)」の実施時期等、多様なことを尋ねたり相談したりするのです。逆に、「下の世界」に連れていかれることもあります。いずれにせよ、「この世界」において、生きている人間は死者・祖先・神々と共に、彼らの作用・影響を受けながら存在していることになります。この意味で、人間は死者・祖先と共に生きているのです。我々のイメージと同様に、死者は姿を伴っている場合もあれば、魂から発せられる不思議な力・現象として捉えられることもあります。時には「下の世界」に旅立ったままの姿、そして時にはそのまま年を取り続けている姿をイメージすることもできようかと思います。
実際に死者と出会ったことがあるという話は、何度も聞いたことがあります。1つの事例をあげましょう。アンデスの村々の子供・少年・少女は、家畜の放牧にでかけます。学校教育が盛んでなかった頃は、それが日課でもありました。今でも、学校のない日はその仕事を手伝います。ある男性は少年時代に、家畜を連れて放牧に出ていたそうです。放牧では、草がよく茂った場所を探しながら、時には山奥にまで入ることもあります。そこで彼は、一人の美しい少女を目にします。追いかけて近づこうとしても、すぐに消えていなくなってしまい、また別の場所で姿を見せるのだそうです。彼はその少女のことを忘れられず、来る日も来る日も同じ場所に放牧に出かけ、彼女に会おうとしたそうです。「彼女に恋をしてしまったのです」、そう彼は言いました。しかし、二度と現れることはなかったそうです。アンデスの人々は、こうした不思議な事象・現象にあうことを「エンカントにあう」と表現します。「エンカント(encanto)」は魔法・魔力を意味するスペイン語ですが、彼らの間ではいわば「死者・祖先との出会い」といったニュアンスで用いられています。ある少女がやはり放牧をしていて、知り尽くしているはずの山から転落して亡くなったこともあるそうです。人々はみな、「エンカント」にあったのだと口を揃えて言います。「下の世界」に、連れていかれたのです。

(おそらく「下の世界」の祖先)
別の世界に行っても、そのまま「生き続けている」としたらどうなってしまうのでしょうか。200歳、300歳、500歳、1000歳…..想像を超えるほど皺だらけの顔になっているのかもしれませんし、日本の翁面のように固定化された超老人像がもたれてもよいと思います。インカ以前には、おそらくこうしたイメージで捉えてよい象形土器が製作されています。その中の一つは、今回の展覧会でも展示されています。顔が皺だらけで縮んでいるようにも見え、目は閉じており、男女の違いも明瞭には判別できません(写真2)。5~6世紀の土器職人の心・感性に、触れることができるように思います。
17世紀初頭に書き留められた神話的語りの中で、父親(の山)が生まれるのを見た最初の人物は彼の息子の一人だった、と述べられている箇所があります。私は、15年ほどこの意味がわからず、「まあ、神話の世界ですから…..」などと受講者に説明していました。アンデスの村々に出入りさせてもらうようになってしばらくし、その意味をやっと理解することができました。死者・祖先は、女性の身体の中に入り込んで「この世界」に生まれ出て、再び新たな人生を送るものでもあるのです。実際に、そう考えている女性からお話をうかがったこともあります。「一番下のこの子は、少し前に死んだ私の父親です。目、表情、しぐさ、やることなすことすべて父親と同じです。私は本当にそう思っています」。父親が生まれるのを見た最初の人物がその息子だったという、我々にとって実に不可思議で時間的矛盾に満ちた表現は、この思考において極めて論理的と解釈することが可能となります。現代の価値観・尺度・論理性のみを通して、先住民世界あるいは中世以前の社会を理解しようとすることは、無謀なことでもあるのです。
現代の都市社会に生きる我々の観念では、人間をめぐる時間は直線的に一方向に向かい、やがて終わるものです。ところがアンデス世界の観念において、その時間は一方向に向かうものでありながらも、周り・循環するものでもあります。家族・親族・共に生きた仲間を失うと、誰もが生きる気力がなくなるほどの辛さ・苦しさ・寂しさに包まれてしまいます。この周る時間をイメージすると、少しであってもそれが軽減されるように思います。
アンデスの村の人々と一緒に、聖なる山々に登ったことがあります。ピークに到着してまずなされることは、そこにいる死者・(村や地域の)祖先全員への大きな声での挨拶でした。「おじいちゃん・おばあちゃん、ここに日本からシュウイチが来ています。あなた方のことを知りたいそうです。どうか少し調べさせて下さい。お酒をもってきました。乾杯、おじいちゃん、おばあちゃん」。別の聖地を訪れたときにも、まったく同じことがなされました。「おじいちゃん・おばあちゃん、ここに一人の日本人が来ています。あなた方が悪さをなさらないように、…ビスケットと煙草をどうぞ…」。この世界で生きている人間に話しかけるのとまったく同じように、そこにいる死者・祖先全員を「おじいちゃん・おばあちゃん」と呼び、コミュニケーションを取るのです。お酒は撒かれ、供物はおそらく9~10世紀頃のものと考えられる墓に供えられました。我々日本人が、ほんの少し前まで墓前でやっていたこと(あるいは今でもやっていること)と、何ら変わるものではありません。
アンデスの人々は、歴史的に文字を用いなかった/用いる必要がなかったため、文字資料がありません。しかし1608年頃に書き残された文書をみると、まったく同じことがなされていた様子をみて取ることができます。インカ時代あるいはそれ以前にも、同様の柔らかな思考のもとで過ごしていたことを疑う理由は、私には見出せません。高度経済成長期は、特に都市部において、日本の土着性が破壊的に忘却されていく起点でもありました。それ以前、小児は生まれ変わると考えられており、日本各地でその観念に見合う多様な埋葬方法・慣習が残されていました。中には、20世紀において、埋葬時に魂が出ていきやすいようにしている事例もあります。三内丸山遺跡(縄文時代)では、小児を埋葬した、底部や胴部に意図的に穴を開けた甕棺が出土しています。
異国の地の社会・文化・歴史、アンデス、ペルー、インカ、プレインカに、エキゾチシズムを求めるのではなく、我々と同じもの・似たものを探し求めてみる。その類似性が継承される理由・されない理由、変化する局面・構図、それらを追うと現代を覆う多様で複雑な地球上の社会問題が浮き彫りになるのかもしれません。