山の神々の姿(2)―[アンデス・コラム4]

文明学科教授
大平秀一

 アンデスの人々の語りの多くは断片的にしか残されません。理由は、キリスト教にとって、土着の伝統的な信仰の継承・実践が罪・悪とみなされ(「偶像崇拝」と呼ばれ、悪魔崇拝とも関連付けられます)、時には暴力を伴って否定されてきたからです(写真1)。よって、自身の心を他者に向けて率直に滔々と語ることなどないのです。祈りの場を「教会」としたり、自身の信仰対象を時には「悪魔」と呼び、そして時には「聖人」にすり替えたりもします。アンデスの人々は、人・他者を一生懸命理解しようとしますので、相手・キリスト教の価値観に合わせた言葉を選択しながら語られもするのです。
 こうした中、ペルー南部高地において、なかなか興味深い語り・お話が採取されています。やはり、山の神々の姿が関わるものです。やや長いため、一部は括弧内に要約しますが、極力そのまま示しますのでアンデスの人々の心に触れてみて下さい。

写真1 『ペルーにおける偶像崇拝の根絶』(アリアガ神父、1621)[1609~1630年代に高まりをみせた偶像崇拝根絶運の最中に作成された改宗対応マニュアル]

(たくさんの羊・牛・土地をもつ、非常に豊かな一人の男がおり、多くの男を魅了したとても美しい女と結婚した。自分たちの財産の後継者が必要と考え、子供・子孫を残そうとしたが、子供はできなかった。そこで教会に行き、「たくさんの家畜、たくさんの土地を誰に残すのでしょうか」と身ごもることを神[dios]に嘆願した。10年経っても子はできず、男は養子を取ることも提案するが、女は受け入れなかった。祈り続け、とうとう15年目に妊娠した。男は幸福に満ち、みなと酒を酌み交わした。)

 こうして、5か月、9か月と経った。10か月目に、女は子供を産んだ。4人の産婆の世話を受け、アシエンダ(大農場)の家で子が生まれたのだ。すると、すると、「何ということか」。女は、人間ではなく1匹のトカゲを産んだのだ。「トカゲだ」。その顔は、人間だった。その体は、すべて、爪にいたるまでトカゲだった。頭だけが人間だった。その体はトカゲだったのだ。「誰もどうすることもできない。あきらめよう。このトカゲを送ったのは、あれほど彼らが頼んだのだから、神のはずだ」。それから、そのまま育っていった。不気味な動物は、母親の乳房から母乳を飲んだ。母親は、もうその子が怖くはなかった。彼女の子なのだから。家の中で屋根の下でそれを育て、外には出さなかった。父親は涙し、酒に明け暮れた。

 こうして日々過ぎて5年が経ち、その子は話し始めた。トカゲが話したのだ。しかし、立ち上がることはできず、(母親の)腹の上を這って歩いた。しかし、その顔は人間だった。トカゲが10歳になるまで、15歳になるまで、何も変わらずそのままだった。読み始めた。そう、字を読み始めたのだ。しかし、トカゲの指だったがゆえに、書くことはできなかった。それはできなかった。普通のトカゲのように、手(足)が4本あった。尻尾は、紐のように長かった。そしてそのまま獣は成長し、巨大になった。どんどん成長していった。そして赤っぽく、血が滴るように、本当に真っ赤になっていった。

 それから18歳になったとき、母親に頼んだ。母親に言ったのだ。「結婚したい」。「何だって。どうやってお前が結婚できるんだい」、彼女は尋ねた。「何のためにこれほどの富、これほどの財産があるのか。結婚させてくれ。このために私を頼んだんじゃないか。私が来たいと頼んだわけじゃない」、トカゲは言った。「私たちの子だもの。何とか結婚させなくては。女を与えなくては」、両親は言った。そして彼のために、一人の若い女に頼みに行った。この力をもつ男の息子がトカゲであることは、みなが知っていた。しかし、この上なく豊かであるがゆえに、その裕福さがゆえに、頼まれた若い女の両親は娘を差し出した。「何も起こらなければいいが」、と言った。

 トカゲの結婚式は、見事なものだった。神父の家で挙げられ、そこで司祭がミサを捧げた。その家で、結婚式が行われたのだ。トカゲの妻は、この上なく美しかった。彼女を連れて行った。しかし、トカゲは肩に彼女を載せていかなくてはならなかった。歌いながら、新郎新婦は結婚の寝室へと向かったのだ。代父と代母(カトリックでは、子供の洗礼時にそれぞれコンパドレ・コマドレと呼ばれる代父・代母を立て、生涯本当の父母と同様の繋がりを維持します。代父は、英語で「ゴッド・ファーザー」といいます)が、それに従った。彼らは新婦を裸にし、新婚の寝室の扉を閉め、3つの鍵をかけた。

 夜だった。トカゲはロウソクを消し、「横になれ」と自分の妻に命じた。彼女は何も悪いことは疑わず、純粋だった。命令に従って横になり、毛布に身を包んだ。するとトカゲは彼女に飛びかかり、彼女を食べてしまった。彼女の血を吸ったのだ。血を飲んだ後、四肢のすべてを、最後の一片まで妻の肉を食べたのである。腹いっぱいで夜が明け、床は血だらけ、血まみれだった。獣の口は、真っ赤になっていた。

 翌日、代父と代母そして両親が扉を開けた。結婚したての2人のために、壺にポンチェ(ラム酒をベースに卵の白身や甘味・香料等を加えた飲み物)をもってきた。腹いっぱいなったトカゲを見つけた。その妻は、肉をそぎ落とされた骨だけが床に残っていた。「何をしたんだ、何をしたんだ、どうしよう」と、嘆き悲しみながら言った。そしてその若い女の両親に、文句を言わないように、何も言わないようにたくさんのお金を渡した。代父と代母そして両親は、こうしてすべてを処理した。「妻としてお前に与えた女をどうして食べるんだ」、とトカゲに問いただした。「どうにもならないことはどうにもならない。腹がへっていた」と答えた。
(トカゲが苦しみせがむことあって、その両親は何度も結婚させ、同じことが繰り返されていく。人々も結婚により何が起こるのかを知り始めた。そして最後に、両親は家畜・土地・お金を約束して、極めて貧しい家の娘に声をかける。娘は怖がったが、魔術師のところに相談に行って何が起こるのかを事前に知り、食べられないための策を受けて貧しい家族のために結婚を決意し、親にその旨を報告する。)

 (娘の)両親は、それを聞くととても満足し、トカゲの親のところへ向かった。「受け入れました。私たちの娘が受け入れました」、と知らせた。「2人を結婚させよう」、トカゲの両親は言った。汚らわしいトカゲは、大喜びして飛び跳ねた。それからベッドに這い上がり、そこに寝そべった。毛布の上で、そのままじっと動かなかった。彼の人生は、そんなものだった。ほとんど地面を歩かなかったのだ。

 そして結婚式を挙げた。またいつものように、荘厳で豊かなものだった。家中で、アルパ(ハープ)やバイオリンが奏でられた。不気味なトカゲの結婚式のために、今度は小屋が建てられた。彼は、結婚式を執り行っている間、椅子の上で居眠りをしていた。その顔は人間で、その目は灰色だった。そして新郎新婦を寝せにいった。代父と代母が、ハラウィー(収穫時等に歌われる先住民の伝統的な歌)が歌われる中、その行列に付き添った。結婚の寝室の扉が閉められ、鍵がかけられた。

 トカゲはロウソクを消した。「ロウソクを消すよ」、と言った。それから妻に命じた。横になれよ。若い女は答えなかった。「あなたが最初に横になって」。「お前が先だよ」。動物は言った。「あなたが横になるまで、私は寝ません。私は行きません。どこに行かなければならないのですか」。「寝るんだ」。トカゲはもう一度言った。「いいえ、寝ません。私は寝ません」。若い女はきっぱりと答えた。すると、トカゲは寝た。すでにベッドの中で、すぐに「カル、カアアアシュ」と、皮を剥ぐときに出る音がした。皮を剥ぎ始めたのだ。女は怖くなった。「何か、何かをしている」と考えた。すでに動転してしまい、魔術師の女が最後に勧めたことを忘れてしまった。トカゲは「寝るんだ」と彼女に話しかけた。皮を剥ぎ終え、そして彼女を呼んだのだ。「この音を聞いて、どうやって一緒に寝るのか」。「私を食べようとしている一匹のトカゲだ」。若い女は言った(娘は魔術師の指示にしたがって行動しています)。

 ロウソクに火を灯し、トカゲに火を近づけた。見ない方がよかった。魔術師の女は彼女に言っていた。「見てはいけない」。はっきりと警告していた。「見てはいけない」と。彼の前でロウソクを灯すのに注意しなさい。彼女は、忘れてしまったのだ。トカゲに食べられるという恐怖から、記憶が定かでなくなってしまった。灯りの前に、トカゲではなく赤い髪をした美しい男が現れた。それから彼女は、それを抱きしめようとした。抱きしめようとしたのだ。しかし、彼は風に変わってしまった。「ウウウウウウ…ウウウウ….」と音を立て、屋根の木の隙間から消えていった。若い女は一人になってしまった。それから、舅から本当の嫁、力のある化け物の両親の娘とみなされた。もう家には誰も子供がいなかったのだ。

 トカゲが消えたとき、村の人々は、「死んだ後に、蛇が一方の乳房から、カエルがもう一方から母乳を吸うだろう」と言って、その母親の陰口をたたいた。それはお前への罰だ。お前に与えたくはないものを神に頼んだのだ。二度と子をもつことはないだろう。

 この語りには、アンデスの人々の山の神々に対する奥深い観念・感性・感覚の一部が、圧縮して詰め込まれているように思われます。教会やキリスト教の神(dios)に祈るとありますが、連続するコンテクストを考えると、山の神々への祈りと捉えなければなりません。山の神々の力により、人間の女性からトカゲが生まれてきたのです。私は、本当に神々の子を妊娠・出産したという女性にお話をうかがったことがあります。白い虹のようなものが立ち上がる湿地帯で、どんよりとした動かない水に足が触れたことによりその子が体に入ってきたとのことで、結果的にその女性は不思議な肉塊を出産したそうです。

 ここでは、生まれてきたトカゲが人間の頭・顔をもっています。世界中にありがちな話ですので、さほど気にも止めず読み進めてしまうのですが、アンデスの人々によって人間と動物の特徴を併せ持つ姿・混在する姿が、直接描かれた数少ない語りの一つです。コラム3で少し見たように、神殿の壁画や土器・織物・金属製品等の物質文化に、人面獣(動物)や逆に顔が動物で体が人間となっている表象は、極めて多くみられます(特にペルー北海岸のモチェ文化)。出産という言葉より、生物学的混淆を意識してしまいがちですが、生きとし生けるもの、そしてあらゆる存在に山の神々の力・活力が及ぶことを思い起こした方がよさそうです。その要素の混在は、動物と人間(神々の顔)のみでなく、植物、そしてその他の存在にまでみてとれるからです(コラム3)。

 この語りでは、初夜を迎えるために部屋に入る際、鍵をかけることが強調されています。そしてロウソクを消すと、そこは真っ暗闇の世界となります。ペルー南部高地では、儀礼時に「下の世界」(ウク・パチャ)の鍵の開け閉めをパフォーマンスすることがあります。ここで語られる真っ暗闇の初夜の部屋は、「下の世界」にほかならないのです。そしてその世界・部屋では、人間(の女性)を食べる行為が繰り返されています。「どうにもならないことはどうにもならない。腹が減っていた」というのが、その理由だそうです。生き物が腹をすかせたら、食べるしかないのです。

 トカゲが「立ち上がることはできず」・「字が書けなかった」という語りも、先住民らしいジョーク・捉え方です。我々は、近代国家システムや資本主義の中で構築されてきた価値観・考え方の中で生きています。いわば、「近代的社会性」とでも呼べる膜で我々の心身は覆われてしまいました。その膜を一枚ずつ剥がしてみると、生き物としての人間という存在の骨格・核心部分が残ります。その核心部分と関わる話ですので、彼らの冗談は単純でありながらも深みがあり、文化や国境を超えて誰もが面白く感じてしまうのです。

 トカゲは、確かに土器や織物に比較的多く表象されており、中には人間の顔をもつものもあります(写真2~5)。でも、どうしてトカゲなのでしょうか。確かにトカゲあるいはそれに類したものは、種類によっては狭くて暗いところにおり、地下性を伴うイメージももち得ます。また自分で尻尾を切り、時にはそれを食べることもあるので、ガツガツと食べるイメージにも繋がるのかもしれません。とえいえアンデス高地のトカゲは、みな小さなものです。海岸部のイグアナには、最大で1mほどにもなるものが生息しているとはいえ、基本的には人に危害を加えることなどなく、人間を食べるイメージなど湧きません。

写真2 トカゲを表象した金製・トルコ石製耳飾り(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真3 トカゲ表象・鐙型壺(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真4 トカゲ表象・壺(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真5 人面トカゲ表象・織物(ワリ文化、東海大学文明研究所所蔵)

 ただし、ペルーに北接するエクアドル南海岸部の川には、4m以上にもなる巨大なワニ(クロコダイル)が生息しています。18世紀の文書には、土地の人々が、そのワニも「トカゲ」と呼んでいたことが示されております。そこには、それらのワニが人間を食べること、そしてその卵を狙うヒメコンドルと抗争すること等が述べられています。少なくともペルー北海岸の漁師は、かつて船で頻繁にエクアドル南部に行き来しており、私の聞き取りによれば、それは少なくとも20世紀半ばまで継続しています。ワニの本当の姿は見なくとも、「トカゲ」に類したものが人を食べるという強烈な情報がペルーに浸透し、神話化されたとしても何ら不思議ではないように思います。

 モチェの土器(IV期:400~600頃)の中にも、山に捧げられた人間(斬首されています)を山の神々と共に食べるような存在としてトカゲが示されています。口には牙も見えます。しかし胴体はワニではなく、どうみても尻尾の長いトカゲです(写真6)。トカゲのようなものとして、すでに神話化されていたのだろうか、などと考えをめぐらせてしまいます。しかし、カニやイセエビにまで山の神々を投影していますので、我々が知らないトカゲの何らかの特性があるのかもしれません。

写真6 人間を食べようとするトカゲ・鐙型壺(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)

 なぜこの夫婦には、このような奇妙な現象が起きたのでしょうか。男は莫大な富を有していましたし、この上ない美貌をもつ妻も手にいれました。ただし、子供はいませんでした。それも山の神の意図・操作だったと、人々は考えています。ところが夫婦は、その意図に反して、無理やり欲しいものを何でも手に入れようとしました。たとえ人の命が奪われようとも、お金にまかせて自身と家族(化け物を含)の都合を優先しようともしています。これは、「公平性を好む」というアンデスの山の神々の特徴(コラム2参照)、換言すればアンデスの人々の思想・思考に反することです。結局は罰が下り、結果的に極貧の娘にも富が分配されて話は終わっています。

 「死んだ後に、蛇が一方の乳房から、カエルがもう一方から母乳を吸うだろう」という村人の陰口は、何を意味するのでしょうか。水場や湿地帯・雨そして地下性に関わるためか、どちらも土器や織物等に多く示される生き物です(写真7~9)。「ワロチリ文書」では、ヘビとカエルが同居していることが病気の原因となっていました(コラム2参照)。これと驚くほど酷似した語りが、日本の昔話にもあります(省略して書かざるを得なかったのですが、語りの構図までそっくりです)。長崎県壱岐島で採取されている「龍宮のみやげ(童子丸)」(土着版「浦島太郎」)です。童子丸は、龍宮で玉をもらって帰ってきます。その玉を耳にあてると鳥のさえずり・鳴き声の意味がわかるのです。それでカラスの会話を聞くと、京都の殿様が、城内でカエルとヘビが一つの甕に埋められていることにより大病になっているとのことでした。童子丸は京都に出向き、それを取り除いて病気を治し、娘・お姫様と結婚します。

写真7 カエル象形鐙型壺(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真8 カエル表象・金製ネックレス(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)

 ヘビとカエルの意味に関して、江戸や明治生まれの方々に尋ねると、常識的なこととしてお話ししてくれたのかもしれません。しかし、その方々のほとんどはもうおりません。コンクリートやアスファルトで覆われた場所を生活の舞台とし、土を踏む機会すら限られている我々は、地球の息遣いを感じたり受け止めたりする機会・感性すら失いつつあるようで、明快には説明できません。少し頭をひねらせてみると、おそらく食べるものと食べられるものが同居するという様態が、宇宙の秩序・調和に反するということなのでしょう。調和が崩れた、危険性を伴う宇宙・世界の様態のメタファー(隠喩)として、ヘビとカエルの同居が捉えられているように思うのです。おそらく、こうした思考・感覚(調和の崩れた宇宙・世界)を図示したと思われる土器も製作されています(写真10~11)。自分たちさえよければそれでよいと考える夫婦・女性も、手の施しのようのないほどアンバランスな状態です。よって、カエルとヘビの同居と一体化・同化させられるのでしょう。

写真9 ヘビ表象鐙型壺(クピスニーケ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真10 同居するヘビとカエル(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)
写真11 にらみ合うヘビとカエル(モチェ文化、Museo Larco-Lima, Perú)

アンデス・コラム1 「『マチュピチュ』とアンデスの精神世界」
アンデス・コラム2 「羽毛・黄金・アンデスの山の神々」
アンデス・コラム3 「山の神々の姿(1)」
アンデス・コラム4 「山の神々の姿(2)」