文明学科教授
大平秀一
生きた存在と捉えられている以上、宇宙を司る山の神々もお腹がすき、食べたり飲んだりする必要があるようです。トカゲ人間の語りには、その感覚も明瞭に含蓄されています(コラム4)。我々日本人には、さほど違和感はないでしょう。今でも伊勢神宮では毎日三度の食事を捧げ、家庭でもお盆等には祖先にお供えもしているのですから。田の神が里に降りてくる春には、お酒や御馳走はもちろんのこと、お風呂まで準備してお迎えしてきました。
アンデスでは、シャーマンが山の神々を呼ぶ際、供物や道具を配した「メサ」という方形の織物が広げられます。するとそこに、いくつかの山の神々が集まってくるのです。その時に、山の神々はハヤブサ(猛禽)の姿をして現れるのだそうです(コラム3)。「メサ(mesa)」はスペイン語でテーブルや台を意味するので、いわば祭壇のようなイメージがあるのでしょう。伝統的な儀礼用具でありながら、ケチュア語等の先住民言語ではなく、スペイン語で呼ばれるのです。儀礼の中では、スペイン語の呼称・表現が意図的に組み込まれます。おそらく、神々のわからない言語を一部に用いることで、だましだまし関わろうとしているのだろうと思います。言語が通じずに、山の神々が怒って帰ってしまうという語りもあります。
この「メサ」は、「メサ・カビルド」と呼ばれることもあります。「カビルド(cabildo)」とは、スペイン語で「(自治体の)議会」を意味します。降り立ってきた山の神々が、シャーマンの相談・依頼にどのように対応するのか話し合って決定していく、そう捉えられているようです。アンデスの村々・共同体では、みんなに関わる事柄が、全員参加型の十分な話し合いを経て決められていきます。日本のかつての「寄合」のようなものです。こうした人間の様態が、そのまま山の神々の特徴にも反映されていくのでしょう。神々が集合するイメージは、ワマン・ポマという先住民が1613年頃に書き残した文書・絵にも示されています(写真1)。そして「ワロチリ文書」では、山の神々が集まって話し合う様子がいくつか語られています。

クスコのインカ王が、望むような関係を構築できない反抗的社会に20年も悩んでいたそうです。その社会は強く、力ではどうにもなりませんでした。そこで山の神々を呼んで解決を依頼することにしました。「何のためにすべてのワカ(山の神々)に金や銀、衣服・食べ物など、もっているあらゆるものを差し出してきたのだろうか。よし、救ってもらうために彼らを呼ぼう。すべての村から金や銀を受け取った方々、お集まりください」。ここでは、山の神々がみな神輿に乗ってやってきます。自分は出向かず、代わりに息子に命じて向かわせた山もいます。みながクスコのアウカイ・パタ広場に集まると、インカ王は状況を説明します(写真2)。「私がどれほど金や銀を差し出してきたのかおわかりでしょう。そうしてきたのですから、お返しください。私は、大勢の人間を失ってしまったのです。これが、あなた方をお呼びした理由です」。山の神々は、みな黙り込んでいました。するとインカ王は、さらに懇願します。「どうして私は金や銀であなた方を飾り、多くの食べ物や飲み物、リャマ、もっているあらゆるものを差し出してきたのでしょうか。大きな悲しみを聞いたのですから、助けてくれませんか。もしそうしてくれないのなら、あなた方はすぐに焼かれてしまうでしょう」。強大な力をもつ神の1人が、口を開きます。「私は、お前そして全世界を振り回す力だから答えなかったのだ。私が破壊してしまうのは、敵のみではなくお前もなのだ。すべての世界がお前とともに終わるだろう。だから黙って座っていたのだ」。

結局マカウィサという山が、インカの依頼を引き受けることになりました。「私がそこに行こう。お前はここに残って、人々に指示して計画を練りなさい。お前のために、すぐに私が行って彼らを制圧しよう」。そう話していたとき、山の神の口から緑青色の煙のようなものが出てきたといいます。おそらく、メラメラとした山の神の力・活力(カマック)が可視化されたイメージでしょう。この山の神は、黄金製のアンタラ(多列笛)とプスカ(糸巻き棒)を手にし、黄金製の頭飾りと黒色の貫頭衣に身を包んでいました。貫頭衣が黒色だったのは、抗争が意識されているためかもしれません。
山の神々は、天候をも操作します。マカウィサ山は少しずつ雨を降らせ、稲妻を発してさらにその雨を激しくし、最後は土石流を起こして村を潰してしまいます。思いを果たしたインカは「父よ、お食べください」と、お返しに何か食べ物をもっていったようです。するとマカウィサ山は言います。「私はこのようなものは食べない。ムユをもってこい」。インカがすぐに「ムユ」をもっていくと、この山の神はカプカプと音を立てながらすぐに全部食べてしまったそうです。
ここで山の神が要求して食べた「ムユ」とは、スポンディルスと呼ばれる海の二枚貝です(写真3~5)。赤道海流の影響下にある温暖な海域、具体的にいうとペルー最北の沿岸部~エクアドル沿岸部の島周辺の浅瀬に生息しています。外面は赤色でトゲ状の突起に覆われており、内面は釉薬をかけた陶器のように光沢を帯び、縁部分が赤色、その他の部分が白色を呈しています。卵からかえってしばらくして岩や石に硬く付着し、そこで一生を過ごす貝で、成長後は最大で15cmほどになります。それを採取するためには、ナイフやハンマー等の道具で剥ぎ取る必要があります。



21世紀を迎える頃、エクアドル政府はこの貝を観光資源に活用し始めました。それもあって乱獲が進み、2009年には禁漁となってしまいました。それ以前はとてもおいしい貝として知られ、地元の人々は採取して食べていましたし、レストランでも提供されていました。私は、ムユのお寿司もいただいたことがあります(写真6)。味は、ホタテ貝に似ています。とても弱い貝で、水揚げして5時間も経たずに死んでしまうのだそうです。よって、食用として、生きたままアンデス高地や遠方に運ぶことなどできません。干し魚が保管されていた遺跡もありますので、干物にした可能性も探られてよいでしょう。ただし、かつての人々が関心を寄せたのは、貝の身というより貝殻そのものだったようです。

この貝は、生息・採取可能な地域のみでなく、チリにいたるペルー中部以南の海岸、アンデス高地・雪山、東斜面・アマゾン方面など、あらゆる地域から出土しています。出土場所は祭祀センター(神殿)や墓が多く、貝そのものが箱に納められたり、副葬されたりしています(被葬者が手に握っている事例もあります)。この他、ネックレス(ビーズ)、ブレスレット、ペンダント等の装身具、その他の装飾品(象嵌の赤色部分)や人形等に加工・多用されており、建築装飾等にも用いられていました。一つの墓から、約700個ものムユが出土した事例もあります。またこの貝を象形した土器や、様式的に図示している土器・織物も少なくありません(写真7~11)。





「ムユ」が、この貝そのものを指した言葉かどうかはわかりません。例えば、家畜の繁殖儀礼で使用される囲いもその名で呼ばれ、そこは輝かしい空間として捉えられています。この貝の内面の光沢・輝きや血液と同じ赤色に、何らかの意味があったのかもしれません。いずれにせよ、この貝に付与された儀礼的意味は長きにわたって継承されてきました。採取地のエクアドル海岸部では、すでに今から5000年以上も前にこの貝でマスクが製作されていますし、ペルーでは4000年以上前に神々の図像を彫刻した装身具等が製作されています。紀元前6~5世紀頃に製作された石彫には、人間・猫科動物・ヘビ・猛禽等の特徴を帯び、おそらく山の神を表象したと思われる存在が、右手にストロンブスという大きな巻貝、そして左手にムユ(スポンディスル)を握りしめている様子が示されています(写真12)。「ムユをもって来い」と山の神が命令している「ワロチリ文書」の語りとこの石彫の製作年代の間には、およそ2000年程度の隔たりがあります。禁漁になる以前、ペルー南高地のシャーマンの方に、エクアドルの潜水夫からもらったムユをお土産として差し上げたことがあります。本当に喜んでくれました。山の神々に、数千年以上にもわたって同質的観念が継承されてきたことは、宇宙・人間の捉え方も継承されてきたことを示唆するのでしょう。

山の神なのに海産物が大好物とは、なかなか面白いと思います。というのは、日本の山の神々も、同じような特徴を有しているからです。オコゼが大好物ということで、マタギたちはそれを懐に入れて山に入ったことはよく知られています。また、山の神がオコゼの「美しき姿」に一目惚れし、恋焦がれて娶るお話もあります。このお話に伴う屏風絵では、多様な動物たちが参加する結婚式の様子も描かれています。山の神とオコゼの関係については、民俗学者や歴史学者が多様な考察をしており、基本的にはオコゼを海の神と捉えられているようです。アンデスでは、ムユが海の神であることを示す資料は今のところ見当たりません。
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場所にもよりますが、やろうと思えば、日本を出国してからおよそ1日半後にはアンデス山中の村に辿り着けます。時間の都合もあって、一度その無謀な移動をしたことがあります。いつもお世話になる家に行き、久しぶりだから今夜は肉でも食べましょうかともちかけました。奥さんの実家に肉があるようで、電話をしてくれました。私も含めて10人(内子供4人)、5~6kgもあれば十分かなと計算しました。すると、電話口で20kgならあると言います。それは多すぎと言ってもまだ交渉しているので、「(包丁で)切ればいいだけじゃない」と小声で伝えると、10kgならあるといいます。冷蔵庫もあるので、まあいいかと思って了承し買いにいきました。受け取ったのは、生きた子ヤギでした。
文化の移動など数えられないほど経験しており、そこに肉屋がないことなど百も承知のはずです。短時間の移動で、私の頭が変化に追い付かず、20kgの肉塊を包丁で切ればいいだけと考えていたのです。都市で生きる者にとり、肉はお店で買う食材・モノと化しています。箱に入れて子ヤギを連れ帰りました。あまりにも可愛いので殺して食べることはできず、育てることにしました。子供たちに謝りました。すると一人の女の子が、「お肉は本当においしいの。だけどお父さんが殺すときは本当に悲しいの」と言ってきました。動物が抵抗してもがく姿、激しい鳴き声、瞬時に崩れ落ちる姿、すぐに皮を剥がされ、生き物が解体され肉塊・肉片と化していく様は、誰が見てもつらいものです。
生きるということは、殺すということでもあります。リャマやアルパカを飼って生活する牧民は別として、山中の農民が肉を食することは多くありません。殺して食べるとき、どうなるのか。今日は豚肉、明日は牛肉、明後日は鶏肉、飽食の時代に生きる我々にはなかなか想像しづらいと思います。屠殺時は、緊張感が漂います(ほとんどの人は見ず、参加もしません)。それを解体し、みんなで調理をする辺りから、和やかな雰囲気に包まれていきます。そしてみんなで食べると、本当においしい。恍惚的な甘美なる幸福感が降り注いでくるかのような、何ともいえない穏やかな空気にその場が包まれていきます。そして満腹となり、みなが満たされます。大きな祭りだと、それにたくさんのお酒が加わり、夜には踊り始め、若い男女が少しずつ闇に消えていきます。それから10カ月後、新たな命が誕生してくるのです。祭祀とは、そういう時空間なのです。
人間が催す「この世界」の祭祀でも、山の神々・死者・祖先が共にいることが意識されます。それ以外に、直接的に「下の世界」に向けて、多様な供物・動物を捧げる・送ることもなされます。それにより、山の神々も満腹となって満たされ、力・活力を蓄えるのでしょう。クスコ北西部の丘上に、「サクサイワマン」という大きな遺跡・祭祀センターがあります(写真13)。この遺跡の名称は、「満腹のハヤブサ」を意味します。猛禽は、山の神々がとる姿でもありました。


基本的に、屠殺は男性の仕事で、女性は専ら調理に回ります。村々の男性は、屠殺・解体のし方を心得ています。屠殺では、血抜きが重要となります。トカゲに姿を変えた山の神々がお腹を満たす際、まずは女性の血を吸うことから始め、それから肉を食べ始めています。肉の食べ方を心得ているのかなとも思えるのですが、どうやら山の神々のもう一つの大好物は、血液でもあるようなのです。中には、「闇の吸血」という名前の山もあります。土器等は、山に血液の流れるイメージが示されているほか、ピューマの姿をとった山の神々が肉にかぶりつくのではなく、人間の首から血を吸おうとしている様子も示されています(写真14~15)。
16世紀以前、神々に送る供物の中には人間も含まれていたようです。アンデスの万年雪を戴く山では、若干ではありますが、インカ時代(15世紀半ば頃~1532年)に捧げられた若年者が確認されています。ペルーのアンパト山(標高6288m)では、約14歳の少女(身長147cm)が捧げられていました(Museo Santuario Andino[アンデスの聖なる博物館]で保管)。ピーク付近に墓があったのでしょうが、付近のサバンカヤ山の噴火により雪面が火山灰に覆われ、氷河が解けて崩落してしまったようで、斜面に露呈した状態で発見されました。このため、墓の構造はわかりません。彼女は、肩掛けや腰帯等を纏って座位屈葬の姿勢で布に包まれており、ムユ(スポンディルス貝)、金製の羽毛、人間やリャマの小像、インカ様式の土器などが副葬されていました。右側頭部を鈍器で殴打され、死にいたっています。アンパト山では後に調査もなされ、幼少の少年と8歳程度の少女を埋葬した墓が隣り合って検出されています。落雷により、遺骸は激しく損傷していました。彼らは座位屈葬の状態で埋葬され、インカ様式の土器などが副葬されています。
チリ中部のエル・プロモ山(標高5444m)では、8-9歳の男の子が確認されています(Museo Nacional de Historia Natural Chile[チリ国立自然史博物館]で保管)。この小さな男の子は、円筒形の墓の中にいわゆる座位屈葬の状態で納まっていました。顔が赤く塗られ、口元から黄色い4本の線も描かれていました。髪には油が塗られて200本以上に編まれており、貫頭衣(リャマの毛製)、外套(アルパカの毛製)を纏い、リャマの皮製のモカシンを履いていました。喉下に銀製ペンダント、右手首にブレスレット、人毛製ヘッドバンド、コンドルの羽毛を伴うリャマの毛製装身具などを身に着け、頭・肩からかけられた7つのポシェットを抱えていました。

私が着目したいのは、ポシェットの中身です。7つの内2つには、少年の髪と乳歯がそれぞれ入っていました。アンデスの人々は、生まれてしばらくは子供の髪を切りません。それも活力の一部であり、早く切ると危険な状態にもなり得るからです。村々にいると、4~5歳の子供は時に男女の判別が困難なこともあります。最初に髪を切る儀礼は、「ルトチコ」と呼ばれます(コラム1)。儀礼を経て初めて切った子供の髪そして乳歯を、誰が保管しているのでしょうか。親・家族以外には考えられません。よって、この男の子がエル・プロモ山に向かった際、親が入念に準備をしたことが容易に推測できます。
動物を殺すときですらつらいのに、自分で生んで育てた子供を山に向かわせる際、耐えられないほどの心痛を伴ったことでしょう。「ワロチリ文書」には、その様子を明瞭にうかがわせる語りもあります。「一人の男が泣きながらやって来た。腕には自分の息子の一人を抱えていた」。彼は、ワリャリョという山の神に捧げようとして、上述したムユ(スポンディルス貝)、コカの葉、そしてティクティ(紫色のトウモロコシからつくったゼラチン状の食べ物)ももっていました。すると別の山の神がその男に尋ねます。「息子よ、そんなに泣いてどこへ行くんだ」。彼は答えます。「父よ、ワリャリョに捧げるために、私の愛しい子を連れて行くのです」。「息子よ、捧げなくてよい。もう一度自分の村に 連れていきなさい。そのムユ、コカ、ティクティを私によこせ。それからお前の息子を連れて家に戻るのだ」。
アンデスの人々の宇宙の捉え方を考慮に入れると、この宇宙を維持するために、本当に苦しみ葛藤しながら、泣く泣く行わざるを得なかった行為だったのでしょう。その痛みを和らげられる唯一の方法は、呼吸が止まっても存在し続けるという思考なのかもしれません(コラム1)。スペイン人が書き残した歴史文書では、山に若年者を捧げる祭祀・儀礼を「カパコチャ(カパクチャ:Capacucha)」と呼んでいます。文書には、男女が対になって捧げられたことや、山に向かうその隊列を見ることがタブー(禁忌)だったことも示されています。あまりにも辛くて、山に向かう隊列に目をやることなどできないように思われます。
土の中ではありますが、私自身もインカ時代に山に捧げられた若年者と対面したことがあります。2001~2002年、エクアドル南高地(クエンカ市西方アンデス西斜面)で実施した一般調査で、およそ10km×10kmの範囲に少なく見積もっても2000~3000ほどの窪み(石組を伴っています)が確認されました。2003年の調査の一部として、それらの窪みの意味を明らかにすべく、多様な場所でサンプル資料を得るための発掘も行っていました(後にこれらはインカ時代に緊急的に構築された墓と判明します)。その一環として、標高1497mに位置する斜面上の狭いテラス(平らに整地された場所)で、わずか1m×2mの発掘区を設定して掘り進めたところ、まったく関係のない墓が検出されたのです。北側上方には、「ポルボラ」と呼ばれている丘(標高2242m)があります。墓の周辺を見回しても、目に見える構築物など一切ありません。まったく偶然に「当たって」しまったのです。国際学会での発表やスペイン語で著わした論文でも、この「偶然に」という言葉を強調しました。普通はその言葉の強調などあり得ないでしょうが、誰であろうと見つけようと思って見つけられるものではなく、そこにこそ若年者を捧げる祭祀・儀礼の意味・コンテクストを見出すべきと主張したかったのです。

その墓には、身長148cm前後、年齢15~20歳の少女が埋葬されており、右側頭部は陥没骨折の痕跡が認められました。発掘データならびにその他のコンテクストより、一連のプロセスが明瞭にわかりますので復元してみましょう。犠牲執行前、限られた何名かの人々(おそらく男性)が、あらかじめ墓を掘りに出かけたのだろうと思います。彼らは直径60cmほどの円筒形の穴を下方に1.2mほど掘り進め、その下部から直径70cmほどの穴を最初に横方向(東)次に下方向へと掘り進め、およそ1㎥強の小さな墓室を作りました。いわゆるブーツ型と呼ばれる墓の形状となります(写真16)。そして、水に混ぜると極めて硬質になる緑色土、それに混ぜる多くの小石・岩の小片、若干の黒土、そして墓室入口の直径70cmの穴を塞ぐための平石も準備しました。この平石は、岩から剥がしたものと思われます。小さな墓ですので、数名でも2日もあれば終えられる仕事です。
後にやってきた犠牲執行の日、執行する人々は、副葬するために鳥の装飾付きの黒色双胴壺を持参してきました(写真17)。この一行には、あらかじめ墓を構築した人々が参加していたはずです。そうでなければ、場所が特定できないからです。少女は肩掛け(リクリャ)を纏い、トゥプと呼ばれる針を用いてそれを胸の辺りで留めていました(写真18)。4つの鈴、1つのピンセット(毛抜き)、1つの石製ビーズを含む、骨製(あるいは貝製)ビーズのネックレスを付けていたと思われます(残存している骨製ビーズは1点のみ)。他の事例を考えると、彼女はきれいに着飾っていたのでしょう(有機質の遺物は残存していません)。
少女が最初に墓室の中に入りました。それから犠牲執行者も、直径60cmほどの円筒形の穴に入りました。彼女は、北側すなわち丘の方向を向いて、膝を立てた姿勢を取りました。そして執行者は、約70cmの墓室の入り口からおそらく彼女に何らかの声をかけたのでしょう。彼女は、その姿勢のまま墓室の入り口つまり執行者の方(西側に相当します)に顔を向けました。執行者は、彼女の右側側頭部を頭蓋骨が陥没するほど強く鈍器で殴打しました。
極めて限られたスペースですので、彼女を見ながら叩いたとすれば左手が用いられたはずです。彼女は、叩かれた勢いで顔を西に向けたまま背後(南側)に倒れ込みました。膝を立てた状態のまま仰向けに倒れたため、脚部は正座を崩して膝下を斜めにしたような状態となりました。後頭部は、墓室の壁にあたってしまい、前方に折れ曲がったようになってしまいました。直後に、持参してきた1つの黒色双胴壺が彼女の頭部脇(西側)に添えられ、用意しておいた平石で墓室に蓋をしました。そして、準備してあったセメント状の緑色土に小石・岩小片や水を加えながら、直径60cmの円筒形の穴が埋められました。最後に、その上に10cmほど周囲と同じ黒土が被せられました。

通常、縦方向に穴が掘られて後に土を埋め戻した場合、時間を経ると表土には窪みができてしまいます。埋めた土が、年月と共に徐々に沈み込むからです。ところが、このセメント状の緑色土は、まったく沈み込んでいません。その上に黒土を被せると、そこに何があるのか誰もわかりません。ピンポイントで位置を特定できるのは、犠牲執行者と墓の準備をした少数の人々だけです。

こうした特別な墓の構築方法をみると、その祭祀・儀礼は見てはいけないこと、知ってはいけないこと、秘められた行為だったことが容易に推測されます。私は、誰にも知られるはずのないものを、偶然に見つけてしまったのです。歴史文書によれば、こうして捧げられた人々は信仰の対象ともなったようです。どこに埋めて捧げられたのかわからないのに、どこを信仰すればよいのでしょうか。おそらく、その北側上方に位置する丘なのでしょう。
この墓の脇には、5mほどの間隔をおいて盗掘された痕跡がありました。土地主が語ります。「夜、あそこはよく燃えていました(=光っていました)。だから何かあると思い、私が掘ったのです」。出土したものについて尋ねると、「人骨や土器が出てきたので、町の人に売りました。人骨は家を守るともいいますので、買う人がいるのです…」(要約)と言います。遺物や人骨を追おうとしましたが、偶然に会った人に売ったので誰かはわからないとのことでした。私が発掘したのは、少女でした。盗掘されたもう一方には、おそらく少年が納められていたのでしょう。大きなコンテクストでみると、はるか下方に「バーニョ・デル・インカ」という水をめぐる施設が配されています。地形を考えれば、おそらく2つの墓の辺りには水路が通っていたはずです(目に見える構築物は残存していません)。彼ら2名は、その水路・その水を流してくれる山の神に捧げられたと思われます。現在、「ポルボラ」(「火薬」の意)と呼ばれているその丘のかつての名称は、失われています。
捧げられた場所・丘の位置等を考えると、おそらく彼女は、歩いて2~3時間ほどの辺り(ラ・ソレダー遺跡周辺)に住んでいたと想定されます。その領域は、何者かに激しく襲撃されて放棄されたため、先住民社会は今に残されておりません。因みに、この領域に数多く分布している窪み(墓)は、この襲撃に際して殺害され、その辺りに倒れていた人々を緊急的に埋葬したものと判断されます。
アンデス・コラム1 「『マチュピチュ』とアンデスの精神世界」
アンデス・コラム2 「羽毛・黄金・アンデスの山の神々」
アンデス・コラム3 「山の神々の姿(1)」
アンデス・コラム4 「山の神々の姿(2)」