文明学科教授
大平秀一

クスコのよく知られたインカの遺跡・祭祀センター「サクサイワマン」が「満腹のハヤブサ」を意味することは、前回のコラムでお伝えしました(コラム5)。ペルーの海岸部では、猛禽を象形した土器が出土しています。それらの中には、ぽっこりと太ったハヤブサを表したと思われるものがあります(写真1)。ナスカ文化で製作されたこのハヤブサの首下には、生気のない人間の頭部が描かれています。捧げられた犠牲を受け取って食べ、満腹となった山の神々の姿が表象されているのでしょう。ナスカの遺跡では、実際に人間の頭部・首級が納められた穴が確認されています。一つの穴には少ないもので3~4個、多いものだと40個以上出土した事例があります(土器の中に納められている場合もあります)。ワランゴという木の長いトゲで唇を閉じ、額に穴を開けているのが一般的です。頭の中に、トウモロコシや落花生などの作物・植物のほか、織物が詰め込まれていることもあります。祭祀・儀礼で首級が手に持たれたりぶら下げられたりする様子は、土器にも描かれています(写真2)。この首級は、「ワヨ」と呼ばれた可能性があろうかと思います。

自分たちの社会から選出して捧げるのではなく、抗争・闘争し合って、他の社会から人を奪ってきて山の神々に捧げる。モチェ文化やナスカ文化といった紀元前後~8世紀頃のペルー海岸部の社会では、その様子が土器や壁画(彩色レリーフ)等に示されています。当たり前ですが、その様子を感じ取れるような経験などしたことはありません。ただ1987年に、ブラジルのシングー国立公園(先住民保護区)で生活するカヤビの人々の村で、かつての闘争が組み込まれた祭祀を見たことがあります。
人形を作ってそれを昔の敵カワイの人々に見立て、男たちがひそひそ声で話しながら合図を送って近づき、最後はみなで大声を挙げて弓矢・棍棒で襲い掛かります(写真3~6)。「カワイ」の名前を叫びながら、憎しみを込めて激しく刺したり叩いたりするのです。かつてのアマゾン先住民の抗争では、時に人をさらうことがありました(書き残されたものをみるとそのまま育てており、相手の社会を困らせるという意図もあったようです)。それが繰り返されると、当然、相互に怨恨の念も生じていったはずです。戦士に扮する男性は、みな黒色のボディーペインティングに身を包みました(酸化すると黒くなる「ジェニパポ」という樹液が使用されます)。




モチェ文化の土器や壁画に示された情報を通して、抗争・闘争・捕獲から犠牲に捧げられるまでの流れを概略的に確認してみましょう。まずは戦闘がなされています(写真7~8)。戦士たちはみな男性で、ヘルメットのような円錐形の防具を被っており、装飾付きのものもあるようです。腰の辺りには末広がりの形状のものをぶら下げ、棍棒や盾のようなものを手にしています(写真7~12)。棍棒の形や衣服に、敵と味方の違いが示されているものもあります(写真7)。戦闘ではその場で血を流して倒れる人々もいますし、捕獲・連行される人々もみてとれます(写真11~12)。連行される人々は裸体で、首や手に縄が付されています(写真12~14)。ボディーペインティング(あるいは入れ墨)を施しているのは、異なる社会の人々を暗に示しているのかもしれません(写真14)。








裸体の人々は、最終的に、階段を伴う祭壇上に座し杯状のカップを手にした人物のところに向かうようです(写真15)。首に縄が付された裸体の戦士は、上に述べた祭祀・儀礼がなされた祭祀センターの壁画にも描かれています(写真16)。そのカップから血液が飛び出しているような図もありますので、おそらくシャーマンの身体に乗り移った山の神々が供物・人体・血液を受け取るのでしょう。シャーマンは、彼らの血を啜るパフォーマンスをしたのかもしれません(家畜の繁殖儀礼の際に、家畜の耳から少し血液を採取して小さなカップに入れ、人間の男女が少し口にするパフォーマンスがなされます。それにより、人間も「繁殖」[子宝]にあやかろうとするのです)。捕獲された人々は、山の神々の所に送られたようです。土器の中には、メンフクロウの姿をとった山の神が、首に縄を付した裸体の人間を手にしている様子も示されています(写真17)。写真15の下方には、すでに「下の世界」に行った戦士・捕虜も示されており、中には首だけの者もおります。「この世界」でも「下の世界」でも、死に行く人々・死んだ人々の周囲で世話をしているかのような鳥が描かれています。嘴を見ると、おそらくガリナソ(クロコンドル)と呼ばれる死肉を食べる黒色の鳥でしょう(写真18)。




トゥミという儀礼用ナイフを用いてなされる、斬首のモティーフも少なくありません(写真19)。人間に加え、猫科動物、フクロウ等の猛禽、魚、カニ、クモ、サソリ等の姿を取っているものもみられます(写真20~21)。犠牲執行者と判断される男性の墓も確認されています。彼は右手にトゥミを握って埋葬されており、50歳以上にもかかわらず身長が135cmほどしかありませんでした。アンデスでは、動物・家畜も含めて、身体の特徴が他と極端に異なる者は神々と関連付けて大切にされます。



土器や壁画に示されている道具や装身具・装飾品等はすべて出土しており、実在したものです(写真22~24)。アンデスでは狩猟用具としても弓矢は使用されず、武器の基本は棍棒と石投げ縄でした。末広がりの形状を呈する腰にぶら下げられたものは、チャルチャルチャと呼ばれる金属製品で、上部に鈴状のものが付されてガランガランと音が出るようになっています(写真24)。鳴り物や多様な装身具が、実戦でどの程度着用されたのかはわかりません。ただしヘルメット状の防具には、中に綿を詰めた織物製のものもありますので、頭部保護のために着用されたのでしょう。




遺跡から出土したデータと突き合わせてみると、描かれている内容は実際になされていたことがわかります。モチェ文化の中心的祭祀センター、ワカ・デ・ラ・ルナの事例を少し確認してみましょう。この遺跡では、モチェIV期(400~600頃)に建設された基壇上の「広場3A」の露岩周辺から、捧げられた人々が出土しています。まさに、セロ・ブランコ(「白い丘」)の裾野に位置しています(写真25)。下層からは乳児1体、幼児(2歳半~3歳半)2体が検出されており、後者2体には首がなく1体は両手に笛を握っていました。

上層には70体ほどの青年男性(15-39歳、平均23歳)が検出されています。多くに外傷痕があり、18体にはすでに治癒した骨折・陥没骨折の痕跡が確認されています。よって彼らは、何度か戦闘に参加した人々と想定することができます。また11体では、受傷後1週間~1カ月を経た骨折が確認されております。これを捕獲された戦闘時に負った傷と考えれば、その期間を経て捧げられたことになります。その祭祀・儀礼がなされるまで、彼らを囲っておいた空間も確認されています(写真26)。鈍器による頭部骨折・粉砕骨折そして頚椎部分を切られたことが、捧げられた人々の死因として同定されています。頚椎の傷(概して第2、第3頚椎の前方)は分析可能な骨の75%に認められ、横方向に刃物を1~9回動かしています。斬首ではなく喉をかき切ることを意図したのでしょう。使用された道具は、儀礼用ナイフのトゥミのはずです(写真19。別の遺跡ですが、頸椎にトゥミの破片が残存していた事例もあります)。
頸椎部分を切ると、動物の屠殺と同様に、大量の血液が流れ出ます。それが土器等に納められ、儀礼的に使用された可能性があります。シャーマンと思しき人々の周りには、鐙型壺やおそらく皮等で蓋をした様子を示すと思われる壺が描かれています(写真27)。また、シャーマンが座した階段上(あるいはスロープ上)の祭壇も実際に確認されています(写真28)。この祭壇は、山の神々が供物を受け取る場面が可視化されたためか、極めて象徴的な意味をもっていたようです。祭壇そのものが様式化されて描かれるほか、シャーマン・山の神が座す最上段を覆って秘められた場であるかのように示した象形土器もあります(写真29)。白骨化後に鳥に突かれた痕跡もあることから、捧げられた遺骸はそのまま放置されたと考えられています。別の遺跡からは、首や手首に縄が付された状態の遺骸も出土しています。その縄は、カブーヤ(リュウゼツラン)の繊維で作られた、強度の高いものです(写真30)。捕獲されて捧げられた人々は、かなり手荒な扱いを受けたようです。




およそ70名の人々が、一度に捧げられたわけではありません。回数の同定は困難なようですが、執行当時は土が泥状になっていた様相を呈しており、雨季あるいはその直後に執行されたと考察されています。アンデス高地では、モチェIV期末期に相当する560年~592年の33年間、ほとんど雨が降っていません。海岸部でもその影響により渇水となり、大きな社会変化が生じています(モチェV期への移行)。海岸部は乾燥地帯でもあり、水を求めて供犠がなされた可能性を考えたくなってしまいます。しかし、出土データはその逆の状況を示しており、エル・ニーニョ現象の影響による大雨や洪水を鎮めるような目的で捧げられたようです。
人身御供に焦点をあててみると、浮かび上がる様子は極めて残酷です。とはいっても、動物であれ人であれ、殺害行為・場面を詳細に復元すると残酷に決まっています。少なくとも土器・織物・壁画には、老若男女を問わず大勢の人々が参加して執行されるような場面は示されていません。執行の場・血液と関連する儀礼は、壁に覆われたピラミッド上基壇の上部、そして壁に覆われた構築物内部でなされています。犠牲に捧げる局面は極めて緊張感に満ち、秘められた時空間であり、おそらくいくつかの役割を果たす限られた人々(基本的には男性)のみが立ち会ってなされたのでしょう。我々は、本当は目にしてはいけないことと向かい合っているのだろうと思います。
遺跡の調査者は、祭祀センター・神殿等のモニュメンタルな遺跡を発掘対象とする傾向があります(基壇内部には、多くの副葬品を伴う大規模な墓が構築されていることもあります)。というより、モニュメンタルな遺跡・巨大建造物であるがゆえに、今にいたるまで遺跡として残存・継承されてきたともいえるでしょう。祭祀センターは、山の神々と「この世界」の接点であり、両者の関係を維持するための祭祀・儀礼が行われた場です。基壇上・内部空間の一部では、端的にいえば供物が渡される場・人身御供がなされる場であり、その痕跡が出土して当然です。ペルーの海岸部は、時にエル・ニーニョ現象による大雨・洪水が発生することがあるとはいえ、基本的には乾燥した砂漠の広がるゾーンです(アンデスから流れ落ちる川沿いのみが、オアシスの状況を呈しています)。よって、基本的には有機質の遺物が良好に残存します。
しかも、基壇を重ねたピラミッド状の建造物は、ペルー北海岸だけでも1000をはるかに超えるといわれます(写真31)。それらが500年~1000年間、あるいはそれ以上にわたって使用されてきたと考えれば、かなりの数の犠牲者が埋められていることになるでしょう。掘れば出てきて当たり前の場所ですので、発掘が進めば資料は蓄積される一方となり、そのデータばかりが強調されかねません。加えて、モチェの土器職人・芸術家が残したモティーフのテーマは、神々との接点と関連するものがほとんどです。


こうした状況より、モチェの人々があたかも日々犠牲を捧げてばかりいると捉えられかねないのですが、それは正しい理解とはいえないように思います。多くの人々は普通の日常生活を送っていたことは再確認されるべきでしょう。職人らが、神々との接点ばかりを表象しているのも、人身御供という秘められた行為がなされているのも、豊穣・繁殖、そして宇宙・世界の安定・維持が望まれたからなのです。基壇下方のオープンスペースでは、老若男女を問わず周辺の村々から大勢の人々が集い、ご馳走やお酒を準備して食べて飲み、歌ったり踊ったりと、賑やかに過ごしたことでしょう(写真32)。
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生物学・植物学・民俗学等に精通した博物学者・南方熊楠は、1925(大正14)年9月(初出)に「人柱の話」という面白い論考を書き残しています。そこで、次のように述べています。
國学に精通した人より、大昔、月経や精液を日本語で何と呼んだか分からぬときく。満足な男女に必ずある物だが、むやみにその名を呼ばなかったのだ。…..(中略)…..またこれほど大きな事件はなきに、一銭二銭の出し入れを洩らさず帳づけながら、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人はまずないらしい。本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記にみえぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行なうもので、人に知れるときかぬというが定則だ。それを鰻屋の出前のごとく、今何人人柱に立ったなど書きつくべきや。こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである。
[現代語訳]
国学に精通した人によれば、大昔は月経や精液を日本語で何と呼んだのかわからないという。普通の男女に必ずあるものだが、むやみにその名を口にしなかったのである。…..(中略)…..またこれほど大きな出来事はないはずなのに、わずかなお金の出し入れを洩らさず帳簿に書き残しているにもかかわらず、今夜妻が孕んだらしいと書いておく人はまずいないだろう。我が国の学者は、この度の櫓下の白骨の一件などにあうと、すぐ書物(歴史文書)を調べて、書物に書かれていないから人柱は全くなかったなどと言うが、これは日記に書かれていないから、わが子が自分の子ではないというのに似ている。ほとんどの場合、呪術的なことは秘密裡になされるもので、人に知られると効果がないと考えられている。それを鰻屋の出前のように、今、何人人柱に立ったなどと書き残されるはずもない。このようなこと(人身御供)は、学者があらゆる遺物や伝説を探って、書物以外の資料を集めて研究すべきである。

「今度の櫓下の白骨一件」とは、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により、宮城(皇居)の桜田二重櫓が壊れ、その修復工事の最中に出土した人骨のことです。それらは立位(立ったまま)の状態で埋められており、しかもどういうわけか頭頂部に穴あき古銭がのせられていました(頭から肩に落ちたものもあるようです)。1925(大正14)年6月24日、東京日日新聞(現在の毎日新聞)を見ると、<宮城二重櫓の地下から立姿の四個の「人柱」現はる 大震災の改修工事中に意外の實在(実在) 頭や肩に古銭を付けて一間隔きに(1.82mおきに) 宮内省で桐の箱に安置>、という見出しで報じています(写真33)。鬼門の北東方向ではさらに出土することを作業員が恐れ、工事は一時中断したとも報じられています。例えば当時45歳の方が作業に携わっていたとすれば、1875(明治13)年の生まれで、江戸時代生まれの両親に育てられたはずです。彼らの心には、鬼門の存在とその意味そしてそこで生じ得ること等を理解できる感性・感覚が備わっていたのでしょう。結局、この二重櫓下からは計16体の同様の人骨が出土しています(最初の4体以外には、屈葬や伸展葬も含まれていますが、みな古銭がのせられていたようです。記事では、4体、5体、8体発見とあり計17体になると思うのですが、7月3日には16体と報じられています)。

当時の宮内省(現宮内庁)は、国史大系の編纂も担い国家の立場に理解も示す東京帝国大学教授の黒板勝美に鑑定を依頼し、最初の出土から9日後の7月3日には遺骨を桐箱に納めて増上寺で回向を行い、早々と幕引きをはかります(写真34)。当時の内閣総理大臣、加藤高明も花を手向けて手を合わせたようです。黒板は、「人柱かどうか軽々しく意見はしかねる」としながらも、築城工事の際の死者・功労者などの埋葬と、世間で騒がれた人柱説に否定的な見解を示しています。文明の香り漂う国家の歴史の中に、人柱の存在は相応しくなかったのでしょう。
欧米で長く研究活動を送って多様な言語に通じ、日本での師弟関係もなく、中央から離れた和歌山に住んでいた南方熊楠は、人柱を否定する論理をあざ笑うかのように批判しているのです(歴史学者の喜田貞吉や宗教学者の加藤玄智も人柱の存在を肯定しています)。人間・社会には、公然と口にしないこと・してはいけないこと、触れてはいけないことがあるのです。ましてや書き残されないことなど、山ほどあって当然です。「本邦の学者」とは、黒板勝美らにほかなりません。書き残されていないから、日本に人身御供・生贄・人柱がなかったというのなら、今晩妻が子を宿したようだと書き残されていないから、私の子ではないといっているようなものだという熊楠の批判の論理は、なかなか鮮やかです。書き残されたものの中から、都合のよい部分を拾ってきれいな歴史を描こうとする。特に近代以後、各国でなされてきたことのように思います。たった一言ですが、「マジナイごとは秘密に行なうもの」という言葉も、かなり説得力があるよう思います。日本の神事は、本来そういうものでした。おそらく、1867(慶応3)年に和歌山で生まれ育った熊楠自身の中に、こうした行為の秘匿性を捉え得る感覚が備わっていたのでしょう。
熊楠は、この論考でヨーロッパ、インド、中国・日本等の生贄・人柱の事例を挙げております。「こんな事が外國へ聞えては大きな國辱といふ人も有らんかなれど、そんな國辱はどの國にもある」とし、特にヨーロッパの事例に紙幅を割いています。ドイツの城の壁、教会の下、堤防に子供を捧げた5つの事例を示した後には、「以上は、英人(イギリス人)がドイツの人柱の例ばかり書き集めた多くのうちの四、五例だが、独人(ドイツ人)の書いたのを調べたら英、仏(イギリス・フランス)等の例も多かろうが、あまり面白からぬことゆえ、これだけにする。とにかく欧州の方の人柱のやり方が、日本よりも残酷きわまる。その欧人またその子孫たる米人(アメリカ人)が、今度の唯一の例を引いてかれこれいわば、これ百歩をもって五十歩を責めるものだ」と、近代化・ヨーロッパ中心主義的思考の浸透と、土着的慣習・思考の否定・排除・隠蔽のせめぎ合いが、どこにでも共通して認められることを主張しています。土着性を否定・排除・隠蔽する態度の愚かさにも、釘をさしているように思われます。宇宙を司る超大な神々の存在を背後に捉え、また感じながら生きていた時代には、世界のどこであっても、神々を鎮めたり満足させたりするために大切なものを送るという思考・慣習をもたないはずがありません。それなくして、宇宙を司る神々と人間の互酬関係は維持できないからです。
二重櫓の改築にあたっていた作業員たちが怖れて仕事を放棄したのは、一部では大正モダンと形容される昭和間近の時代において、熊楠と同様にその秘匿性を感じ取れる心を持ち合わせていたからなのでしょう。神奈川県の箱根町では、関東大震災が芦ノ湖(箱根権現御手洗の池、万字ケ池)の龍(九頭龍)によって引き起こされたと捉えていた人々がいました。伝承では、芦ノ湖に住む毒龍が娘を人身御供としていたところ、万巻上人がこれを調伏し、九頭龍権現となって箱根の山を守護していると語られます(箱根神社の由来を伝える「筥根山縁起并序」では、生贄譚は書き残されていません。757年[天平宝字丁酉(元年)]に万巻上人が箱根にやって来ると示されています)。後には御供が赤飯に変わり、現在でもお櫃に入れた三升三合三勺の赤飯・神酒・塩水が7月31日に捧げられています(かつては三斗三升三合、旧暦6月12日)。宮司によれば、このお櫃が浮かぶと不吉なことが起こるとされ、古くから忌み嫌われたそうです。1923年7月31日の湖水祭では、お櫃が浮いているのを見た人々がいたといいます。九頭龍が受け取らなかった、食べなかったと捉えられたのでしょう。そのほぼ1か月後に、大地震が発生したのです。因みに、この御供を捧げるのは、宮司一人が夜に行う秘儀なのだそうです。
同じ神奈川県の江島神社(江の島)の由来を説く『江島縁起』には、やはり毒流(五頭龍)に子を捧げる話が語られており、人々が怖れてその場を移る際、そこを「子死超」(腰越)と呼んだと記されています。ヤマタノオロチ(古事記・日本書紀)以後、生贄の観念が存在したことは文書を通して確認できます。伝承・祭祀としては、例えば「長柄の人柱」、「早太郎伝説」、「めっけ犬伝説」、「一夜官女」などのようによく知られたものがあります。それらは、ほんの断片にすぎません。各村や町・地区・地域でうっすらとした語り・記憶が、どれほど継承されてきたことでしょう。しかし、それらが他者に具に語られることなどほとんどありせん(一部は、国際日本文化研究センターHP内のデータベースで触れることが可能です)。日本で残された生贄譚は、同じような特徴を兼ね備えているように思われます。あることを機に終わったとし、語られた時代・書き留められた時代ではみな過去の慣習と化しているのです。あたかも古き悪しき慣習・伝統が終わり、新たな秩序・慣習が始まったかのようですが、これをそのまま読んで字のごとく捉えるのは、あまりにも単純な解釈のように思えます。このような語りの構図・構造は、秘匿性を維持する上で最適でもあるのですから。
多様な要因が重なって、本来はやはり秘匿性を伴っていたはずのアンデス世界の過去の慣習が、我々の前に露呈されています。しかし、かつて人間という存在・生き物は、多少の文化の差異はあれども、大枠では同じように宇宙を捉えて、同じような思考・論理で過ごしているようにも思えます。
アンデス・コラム1 「『マチュピチュ』とアンデスの精神世界」
アンデス・コラム2 「羽毛・黄金・アンデスの山の神々」
アンデス・コラム3 「山の神々の姿(1)」
アンデス・コラム4 「山の神々の姿(2)」
アンデス・コラム5 「山の神々への供物(1)」
アンデス・コラム6 「山の神々への供物(2)」