【ジ・おでん団】旗揚げ公演レポート①〜近藤匠さん編〜

文芸創作学科教員の川口好美です。
以前の学科ニュース(「世界の文学A」のゲスト講師に俳優の布施安寿香さんをお招きしました 2025.08.05)で紹介した学生有志による朗読劇ですが、夏休み期間にわたしが居住する静岡県川根本町で旗揚げ公演を行いました。
演目は太宰治の「走れメロス」。文学研究科日本文学専攻1年次の近藤匠さんと文芸創作学科1年次の腰塚ひなたさん、そこにプロの俳優である布施安寿香さん、二神壮麻さん、わたし、さらにわたしの息子まで参加して一つの作品を作り上げました。<ジ・おでん団>という劇団名にふさわしいにぎやかさで、お客さんと一緒に盛り上がりました。
近藤さんと腰塚さんが、二日にわたる川根本町ツアーをそれぞれの視点からふりかえります。ぜひお読みください。


 本番当日。川根本町の朝は、穏やかそのものだった。昨晩のうちに、私と腰塚さんは、川口さんの車で川根本町に前入りしていた。
からだをすり抜けていく風は爽やかで、川のせせらぎと、鳥の声が山間に響いている。昨晩ここに着いた時は見えなかったが、長閑、という字がぴったりの場所である。
 気がつくと、私は走り出していた。

 思えばこの半年間、いろいろなことがあった。
 川口さんが、「朗読劇をやろう」と誘ってくださったのが、すべての始まりだった。
 そこから腰塚さんが参加して、台本を作成していった。川口さんが『走れメロス』を簡単にセリフ化してくださり、それを私が脚本にした。演出案は、あとからみんなで考えた。
 ジ・おでん団という劇団名は、私の指導教員である助川先生が「いろいろ有り合わせ」というこの三人のイメージから、“おでん”という言葉をくださり、完成したものだ。
 その後、SPAC(静岡舞台芸術センター)に所属されている布施安寿香さんも合流し、私の芝居仲間、二神壮麻も入ることとなる。二神は、私が通っている声優の養成所で出会った友人で、本来は観客として来てくれるはずだったが、快く参加してくれた優しいやつだ。さらに川口さんの息子さんのよっちゃんも迎え、静岡市内と東海大学前の二箇所で稽古を行った。
 白状すると、私は布施さんとの練習にビビっていた。練習するたびに、自分の粗が丸裸にされていく。役者としてだけでなく、これから社会に出ていく人間としても、自分はまだまだ未熟者なんだと痛感した。
 自分が、何を、どうやって、お客さんに見せたいか。それを自問自答し続けるのは、簡単なことのはずなのに、やたら頭を使う。何度、自己嫌悪に陥ったかわからない。こんなのでいいのだろうかという漠然とした不安が、この川根本町まで影のように付き纏っている。
 しかし本番は、こちらの事情などお構いなしにやってくるものだ。

 伝統文化伝承館、時愛。
 会場設営を済ませ、昼ごはんを食べ終えたあたりから、私と二神の冗談が徐々に増えていくのを感じた。そこで初めて、自分が緊張しているのを自覚した。
 いよいよ、お客さんが入ってくる。小窓から外の光だけが差し込む薄暗い控室で、二神、腰塚さんと握手を交わした。
 出番が来た。腰塚さんに続いて、舞台上に出る。そのあとのことは、正直なところ朧げにしか覚えていない。気がついてないだけで、たぶんミスはあっただろう。控え室に戻ったとき、おつかれさまでした、と共演者のみんなに言うより先に、「あー、ちくしょう」と言葉が出てしまった。覚えていないが、絶対に何かやらかしている確信はあった。
 帰宅していくお客さんたちの顔を見て、ホッとした。納得できなくて悔やんでばかりいるのは、それはそれでお客さんに失礼かもしれない。無理矢理にでも、今は笑顔でいようと思った。その晩は「ゲストハウス みかんせい」さんのお庭で開かれた、BBQに招待された。川根に住む人々と、あと猫が二匹。我々を、あたたかく歓迎してくださった。

 本番二日目。この日は二つの小学校で、走れメロスの公演を行う。観客のほとんどが小学生ということに、私は緊張していた。いったい、何を言われるのだろうか。子供の視線はかなり鋭くかつ純粋で、面白いかどうかを厳しくジャッジする。容赦などない。それが怖い。
 最初の学校では、小学生たちからの緊張が伝わってきた。ところが、劇が終盤になるにつれ、緊張も和らいでいったように感じた。劇が終わると、小学生たちからいくつか質問を受けた。「大学はどんなところか」「将来どうするのか」など、重めの質問が多かった。自分なりに、ありのままの考えや経験を答えた。

 二回目の公演を終え、撤収作業をしていたところで、小学校の先生がiPadを持ってきた。なんと、一回目の公演を観た生徒が、感想を書いてくれていたのだ。
撤収作業も一時とまり、その場で感想を読んだ。メロスよりも、二神が演じるセリヌンティウスの方が人気で悔しさを覚えたが、それでも心の奥がじんわりと、温かくなった。
 二校目。いよいよ千秋楽だが、これで終わってしまうのか、という切なさはなかった。かといって、早く終わってほしいという感情も湧かなかった。心は至って、凪いでいる。とにかく、やるべきことをやるだけだ。不思議なくらい、頭は冷静だった。
 メロスが叫んだり、走ったり飛んだりするシーンで、観客たちの笑う声が聞こえてくる。今までの、どの公演よりもウケがいい。演じやすい、とさえ感じた。受けとったこの笑いを、芝居でどう観客に返していくか、考えるというよりもぜんぶ反射で返すような感覚に近い状態だった。そうして私はメロスとして走り、セリヌンティウスと王をぶん殴った。
 客席に向かってお辞儀をしたとき、私の心はひどくさっぱりしていた。天を突き破るような感動とか、叫びたくなるほどの喜びとかもなかった。安堵していたのかもしれない。
 公演後、生徒たちと一緒に観劇してくれていた校長や教育長から、「さまざまな学年の子どもたちが、こうして一つの場所に集まって何か観ていることが嬉しい」と仰っていただいた。私は、一緒に話を聞いていた二神とともに、ガサガサの声でお礼を言った。

 これでよかったのだろうか、という気持ちは、まだ胸の中に残っていた。そのくせ、あのシーンをもっとこうしていれば、という具体的な後悔はない。どう折り合いをつければいいか、わからない。おそらく、この話に結論は出ない。明るい未来も約束されない。わかりやすい将来への展望もない。漠然とした不安はいまだに、影のように付き纏っている。きっとそんな自分の未熟さは、一生付き合っていかなきゃいけない悩みだ。自己嫌悪のあまり自分を見失うことだって、このさき何度もあると思う。友人家族に迷惑もかける。それでもまだ、道は続いている。続いているからには、走るしかないのだ。

文学研究科日本文学専攻 博士課程前期 1年次 近藤 匠