学科教員リレーエッセイ27 水島 久光 教授      「科学技術と人間について」

■原子力とSNS
 第96回アカデミー賞最多7部門を受賞した『オッペンハイマー』が、ようやく2024年3月29日から日本公開となった。
 前年7月に世界各国で公開され、わすが二か月で興行収入9億1200万ドルを突破、伝記映画としてそれまで一位だった『ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)をあっという間に超えた。そして同時期に公開された『バービー』とのコラージュ画像の炎上(「バーベンハイマー」)が話題となった。
 僕は映画については、「見るまで語るな」をモットーにしている。だから半年以上抱えつづけた「もやもや、むずむず」した気持ちを晴らすべく、速攻で見に行った。
 公開にあたり国内メディアは、こぞって「被爆国・日本ではどう受け止められるのか」との問いを掲げ、記者たちはレビューを掲載した。世界公開時の海外報道においてももちろん「原爆の惨状をほとんど描いていない」との批判はあった。しかし僕は、直接それを問うことに躊躇があった。それは本作が、鬼才クリストファー・ノーラン監督の作品だったからだ。
 『メメント』(2000)や『TENET』(2020)で自在に時空間を加工し、また『インターステラー』(2014)の宇宙、『ダンケルク』(2017)の戦場でもその認識のズレを主題の中に織り込んできた「策士」である。もとより「悲惨さ」を前景に押し出す気がないのはわかっていた。しかし、実際見た第一印象は「意外」というほかなかった。
 もちろん細かい演出が施された傑作ではある。キャスティングとセリフ回しもよく練られている。「原爆」も優れた隠喩で描かれており、「避けた」わけではないことはわかった。だが僕は、見終わってまたもや「もやもや、むずむず」感を抱えることになった。それは「新たな表現を開発してきた」ノーランへの期待が裏切られたような、既視感を覚えたからだ。
 リーガルな聴聞会のシーンを軸に、応酬される言葉が指し示す「過去」の再現映像が挟み込まれる――この展開はどこかで見たことがある――すぐに思い当たった。この映画の構成は2010年に公開され高く評価された『ソーシャル・ネットワーク』によく似ているのだ。まあ「伝記モノ」にありがちのストーリー設定ではある。「らしくない」と思った。
 しかし思いなおした。きっとそれも意図してのことだろう。それだけ大きな主題を扱っているのだと。フラッシュバックする「過去」には、出来事のみならず心理描写が多く含まれ、好奇心と情動、権力と正当性の間に、単純には制御できない境界領域があることが示される。比較的単純な「つくり」だからこそ主人公の思考の複雑さがクローズアップされる。
 Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグとオッペンハイマーの「悩み」を重ね合せてもいいのかと自問してみる――SNSと原子力。一見問題の大きさが違いすぎる。しかし核分裂の連鎖反応同様に、ネット言説の炎上は制御不可能な力をもつ。しかもそれらの技術が実装されるまでの道のりは、集団心理や政治に飲み込まれる宿命を背負う。
 我々人間はこれまで「科学技術の対象」について、たびたび判断を過ち、命や尊厳を奪いあう淵に自らを追い込んできた。そこには「何か」がある。この二つの映画は、集団から半歩外踏み出してしまった「天才」を映している。そして彼らが目にしてしまった「人の手に負えない何か」を映像化しようとしている。


■ソーシャルを問う
 なぜ『オッペンハイマー』と『ソーシャル・ネットワーク』を重ねるに至ったのか。それはこの2024年度から「ソーシャルマーケティング論」という授業を新たに担当するようになったことと関係がある。この『ソーシャル・ネットワーク』の前半部分を、授業のイントロダクションで学生たちと見ようとシラバスに記載していた。
 「ソーシャル」はSNSの最初の「S」――広報メディア学科であれば、そう受け取るのが普通であろう。しかし、この言葉は他の用法を参照すると、そう単純化できないことがわかってくる。医療保険分野では「ソーシャル・ワーカー」、行政学や地域社会学では「ソーシャル・グッド」、「ソーシャル・キャピタル」、ついこの間まで我々を苦しめてきたコロナ禍中のメディアでは「ソーシャル・ディスタンス」という言葉が飛び交っていた――これらの「ソーシャル」はみな同じ意味で解釈できるのだろうか。
 辞書を引くと「ソーシャル」には「社会、社交」という訳語が充てられていることがわかる。そういえば「社交ダンス」は「ソシアル・ダンス」だった。でも、我々「民主主義」の精神が十分血肉化していない国民にとってみれば、この「社会」と「社交」というそれぞれの語の意味の間には、遠い、別物のような距離感を抱いてしまう。
 『ソーシャル・ネットワーク』は、その謎を解いてくれる映画作品だった。主人公である19歳のマーク青年は、ハーバード大学を牛耳るエスタブリッシュメント(支配階級)たちに対する強いコンプレックス、屈折した心の持ち主だった。そして彼にとって「ハッキング技術」とは既存の体制に風穴を開ける「武器」であった。
 このドラマを見ていると、欧米における「社交」と「社会」の間の歪んだ連続性――言い方を変えれば、閉じた「親密圏」から「公共圏」の開かれが誕生していった謎――どのようにその敷居を開け閉めし、「行きつ戻りつ」しながら文化史を積み上げていったのかをなんとなく感じることができる。
 そしてそれは今日もなお「現在進行形」だ。ウクライナで、ガザで、世界の紛争地域で、あるいは格差に喘ぐ生活世界で、なぜ人々は解決の芽を掴み損ねているのか。その問いの先に、近代社会が手に入れた「世界」の広さと、ちっぽけな生き物としての「欲望」が交錯した「市場経済」の自律性を発見することができる。
 僕は2003年に東海大学に就職する前は、メディアを「道具」として用いる「マーケティング」を生業にしていた。だが、ネットバブルの最初の崩壊で、その限界を見た経験から、それと決別するためにメディアを「研究の対象」とする道にたどり着いた。それから20年、よもやこういうかたちでもう一度「マーケティング」と出会うとは思ってもいなかった。
 「ソーシャルマーケティング」は、経済学者フィリップ・コトラーが2009年に打ち出した概念でもある。さて、マーケティングは、人を置き去りにして暴走する「市場」を手なずける技術たりえているのだろうか。一方コトラーは齢90歳を過ぎ、未だにこの分野の「神様」として崇められている。


■「100日後に死ぬワニ」、再び
 『オッペンハイマー』を見た翌週、僕は桜が満開の福島県双葉郡富岡町を訪ねた。同地に開設されている東京電力廃炉資料館を見学するためだ。オープンから6年も経っていた。それこそ映画ではないが「見るまで語るな」のモットーに反する。大反省である。もちろん背中を押してくれたのは『オッペンハイマー』である。

富岡の東電廃炉資料館


 見に行ってよかった。色々な解釈が成り立つとは思うが、ともあれ「深い反省」の言葉を前面に立てつつも、「現状理解」を促す展示の工夫に目が奪われた。しかし、ここでもまた「もやもや、むずむず」した気持ちに襲われた。燃料デブリの取り出しを説明するコーナーでは、新たに開発されたロボットたちが活躍していた。凄い!と思いつつもハッとした。ここはもはや、人間の姿はないSFの世界だと思った。
 廃炉資料館からレンタサイクルで駆け上がった坂の上に、桜並木で有名な「夜ノ森」という地区がある。メインストリートはトンネルをなすようにソメイヨシノは満開。汗を拭きながら僕はしばし言葉を失っていた。この桜たちは、一帯に人が立ち入ることができなかった何年もの間も、きちんとこの季節には精一杯に花を咲かせていたのだ。そのことを思った。
 新型コロナウイルス感染症の流行が始まる少し前、ネットでは『100日後に死ぬワニ』という4コママンガが話題になっていた(きくちゆうき作)。2019年12月12日 – 2020年3月20日のまさに100日、自分の死ぬ運命を知らないワニののんきな日常を描いたこの作品は、コミカルな画風と生命の重さとの不思議なコントラストで一世を風靡した。その最終回、ワニは満開の桜を見ながら息を引き取る――僕はそのシーンは、この「夜ノ森」桜トンネルを舞台として描いたものと信じている。

夜ノ森の桜

 このワニこそが人間である。そして僕は2024年の春、その桜を眺めながら、死ぬべき定めから逃れられない人間と、永遠とか無限とかを相手にせざるを得ない科学技術との「のっぴきならない関係」について考えていた。