学科教員リレーエッセイ⑰ 羽生浩一 教授「ノーベル平和賞をナナメから深堀する」

例年10月上旬に候補者が発表され、12月上旬に授賞式が開催されるノーベル賞。その歴史は古く、スウェーデンの科学者アルフレッド・ノーベルの遺産を原資とし、1901年から授賞が始まりました。当初は、医学生理学賞、物理学賞、化学賞、文学賞、平和賞の5部門でした。このうち、平和賞をのぞく4部門(加えて、1969年からはスウェーデン国立銀行設立300周年を記念して経済学賞を新設。だがノーベルの遺志にはないため、本流のノーベル賞と見なされていない)はスウェーデンで選考、決定され、授賞式は首都ストックホルムで行われますが、平和賞のみは隣国のノルウェーで選考、決定され、首都オスロで授賞式が行われます。近年の平和賞の授賞式は、世界的な音楽バンドなどを余興に取り入れてにぎやかに行われ、インターネットで世界中に生配信されます。あれこれと話題性のあるノーベル平和賞を「平和の広報機関」ととらえて研究することが、この30年近くノルウェーと縁のある私のライフワークの一つになっています。

平和賞受賞者が記念レクチャーをする演台に立つ筆者

過去120年におよぶ歴史の中で、日本はノーベルが創設したすべての部門で受賞者を輩出していますが、唯一国内外でその授賞が物議を大きくかもしたのは1974年の佐藤栄作元首相に対する平和賞授賞でした。授賞理由には、首相在任中に、戦後米国の統治下にあった沖縄(今年は復帰50年)と小笠原諸島の返還交渉をやり遂げ、そして冷戦下における核戦争の脅威の中での非核三原則などが評価されていますが、私が外交資料などを日・米・英・ノルウェーなどで調べてみたところでは、必ずしも佐藤元首相が本命ではありませんでした。当時、国内外の世論の多くは佐藤元首相を平和主義者と認めていませんでした。では、なぜ佐藤元首相が受賞したのか。調べてゆくと、日本の戦後復興で重要な役割を果たした吉田茂元首相がたびたび平和賞に推挙され、最終候補に入っていたにもかかわらず1967年に急逝したことによって、「日本への授賞」の機会が佐藤に回ってきたということが見えてきました。中華人民共和国の核実験成功、米国と並ぶ世界最大の核兵器保有国のソビエト連邦のフルシチョフ書記長死去に伴う政治不安定化などもあり、平和賞の候補者を選考する委員会が、冷戦下の核の脅威と拡散に対するNOというメッセージを強く押し出すため、東アジアでもっとも安定した民主主義国でかつ非核三原則を標榜する日本に授賞した、ということだったのです。ちなみに前年の1973年は、ベトナム戦争終結に尽力したベトナムのレ・ドゥク・トと米国のヘンリー・キッシンジャーの2人の政治家の同時授賞となりましたが、ベトナムの候補者は、戦争はまだ終結していないとして受賞を断っています。そのためアジア人初の平和賞受賞の栄誉は翌年の佐藤栄作元首相にもたらされました。そして、佐藤元首相受賞の翌年の1975年は、ソビエト連邦の反体制活動家で世界的核物理学者のサハロフ博士に授与されました。この3年間は、世界を分断する冷戦に真っ向から向き合う、きわめて政治的なメッセージを含む平和賞が続きました。これが平和賞の転機となります。

今年のノーベル平和賞は、ロシアとウクライナの戦争下で勇敢に活動を続ける、ウクライナとベラルーシとロシアの人権活動家らに対して授与されました。まだ戦火は続いています。ロシアのウクライナ侵攻から1年を待たずして戦争が早期終結することを祈りたいと思います。