“我がごと”として遠い戦争の記憶に向き合う ~ JPOTの最近の活動から

 学科のメディアプロジェクトの一つJPOT(東海ジャーナリズムプロジェクト)が毎年発行している機関誌「Journalists」は、NPO団体の日本ジャーナリスト会議(JCJ)と協同で制作しています。JCJは、日本のジャーナリズムが第2次世界大戦に加担したことに対する反省から二度とジャーナリズムを戦争に加担させないという意志で設立され、戦後60年以上にわたって活動を続けるジャーナリストらの団体です。団体では過去1年間のうちに日本のジャーナリズムにおいて顕著な業績を上げた作品を表彰する「JCJ賞」を運営し、年に1冊発行される機関誌の「JCJ賞」特別号には、受賞者のスピーチと作品内容、そしてJPOTの学生メンバーが執筆した記事が掲載されています。今年のJCJ賞候補者は8月31日に決定し、9月24日に東京で授賞式が開催されます。授賞対象となるのは政治や社会問題などさまざまですが、第2次世界大戦と戦後をテーマとした作品が毎年ほぼ1つは含まれているのが特徴です。

 こうした戦争についての知識を予め得ておくことは、JPOTのメンバーには機関誌作成だけでなく、学生時代の学びの一つとして必要です。今年度の機関誌のための取材や編集作業がこれから始まりますが、JPOTメンバーの私たちは、7月23日に、1〜3年生の計7人で東京・千代田区にある「昭和館」、「しょうけい館」、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を訪れました。戦後77年が過ぎ、第2次世界大戦の記憶が薄れていくなかで、戦争世代ではない私たち(平均20歳)が戦争の記憶を受け継いで行くためには、まず「記憶」に触れることが不可欠だと思ったからです。今年2月から始まったロシアのウクライナ侵攻や日本の隣国である中国や北朝鮮の軍事演習など、世界が再び大きな戦火に覆われてしまうかもしれないという緊迫した状況のさなかにあることを自覚しつつ、今一度戦争について考え、お互いに共有し合うことで戦争について学ぶことが目的です。

訪問後に参加した学生たちが集まって座談会を行い、感じたことや印象に残ったことについて語り合いました。

<座談会参加メンバー>
3年:鈴木正顕 今村歩 佐藤希実 中山大輔 緒方千風
2年:中島瑞葉
1年;山口創大

【昭和館】 東京都千代田区九段南1-6-1
*「昭和館」:平成11年3月に開館した、主に戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦についての歴史的資料・情報を収集、保存、展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供する施設。

今村: 一番印象に残っていることは、「水汲み体験」です。文章でしか読んだことがないような戦時中の経験を、実際に体験できて面白かったです。黒塗りされたはがきも印象に残っています。兵士から家族に、「支援物資を送ってほしい」というはがきを送っていた記録が展示されていましたが、その内容が黒塗りされていました。当時の言論統制や校閲の厳しさが窺えました。当時の新聞記事の展示もありました。戦況を事細かに知ることのできる少ない手段の一つが新聞だったため、今の新聞よりも文字の間隔が狭く、所狭しに文字が並んでいたのが印象的でした。

中島: 日本に残った家族から戦場にいる兵士に送った手紙の展示もありました。家族は「無事に帰って来て欲しい」と書けなかったようです。それでも、兵士達にとっては、家族の無事を知り、故郷を思い出す手紙は、心の支えになっていたと思います。
米軍が空から日本語で書いたビラを撒いていたことも知りました。そこには日本国民の戦意をなくす言葉が書かれていました。これは一種のプロパガンダだったのではないかと思いました。空から爆撃もそのような紙も降ってくるというのは、本当に異様な光景だったのではないかと思います。

緒方: 鉛筆の濃さがアルファベット表記から日本語表記へ変わっていたことや、テストで「ヘイタイゴッコ」が取り上げられていたこと、愛国軍歌「イロハカルタ」があったことを知りました。子どもたちが普段使う道具にも、戦争に対する意識の刷り込みがされていたことにゾッとしました。敵国に関わるものを徹底的に排除して、幼少期に戦争へ向かう思考をインプットすることで、出征のとき、疑うこともなく戦争に行ってしまう状況ができてしまっていたのではないかと思いました。

鈴木: 戦争中に使われていた教科書が、終戦後も黒塗りをされて使われていました。それまでは戦争のための教育をしていたのに、同じ教科書でどのように教育を再開したのか気になりました。教育は子どもたちの人間形成に深く関わることなので、当時の教科書の影響はすごく大きかったと思います。

【しょうけい館】 東京都千代田区九段南1-15-13ツカキスクエア九段下
*「しょうけい館」:厚生労働省が戦傷病者等の援護施策の一環として、戦傷病者等が体験した戦中・戦後の労苦を後世に語り継ぐ施設として平成18年3月に開館した国の施設。常設展示室では、戦地で受傷したとき身につけていた実物や、医療・更生などの様々な資料、写真、映像、体験記などが展示されている。その他、図書閲覧室や戦傷病者の証言を映像で視聴できる証言映像シアターが設備されている。

中島: 一番衝撃を受けたのは、日本兵が身につけていた眼鏡やカバンの展示です。それによって致命傷を防いだという説明がありました。何十年も前の戦禍をくぐり抜けたものを目にしたことで戦争の生々しさを感じました。

鈴木: 私も眼鏡や衣服を持って帰り、残していたことに驚きました。現代では、戦争の記録を事細かに取っていたりしますが、当時はそんなことを一切考えていないと思います。どういう気持ちで遺物を持って帰ってきたのか、私には分からないです。もしかしたら持って帰って来た人は、戦争はやっぱり良くないと思い、後世に伝えていかなければならないという気持ちがあったのではないでしょうか。

今村: 私はそういうことではないと思います。兵士は政府に、「戦争は良いものだ」という肯定的な教育をされていたと思うので、残された遺族に「戦争で国のために負けました」という戦った証を見せるために、持って帰ったのだと思っていました。

山口: 私は『戦争に行った衛生兵が、自分も攻撃を受けて耳が聞こえなくなった』『兵士の中でアメーバ赤痢という病気が流行って腸が食べ物を吸収しなくなり、食べ物が素通りする』などのエピソードが印象に残っています。「戦争は悲惨」というイメージはありましたが、このような壮絶な話は知りませんでした。戦争に対して漠然としたイメージしか持っていない人は多いと思うので、このようなエピソードを日本人だけでなく、戦争に関わった国の人々にも伝えていくべきだと思いました。

佐藤: 私は、しょうけい館を見学している時に『野火』(2015年公開)という映画を思い出しました。この映画でも衛生兵が登場していて、重症で治せない兵はそのまま放置されたり、持ち物だけ奪われて置き去りにされたりするシーンがあります。帰還した元衛生兵の人々の証言を読み、誰よりも戦場に残って仲間を助けなきゃいけない衛生兵という役割だったからこその悔しさや辛さに触れることができました。この映画では、同じ兵士の肉を食べる場面もあり、野戦での食糧不足や物資の不足が兵士を蝕んでいたことが、しょうけい館の証言を通してより現実的に感じるようになりました。

緒方: 私は「重症者よりも戦線復帰しやすい軽傷者の治療を優先した」という記述が印象に残っています。深い傷を負った兵士が治療を受けられず長く苦しんだことを想像すると、胸が痛いです。使える兵士は使って、使えなくなったものは捨てる。そんな命の選別が戦争によって簡単に行われてしまったのだと感じました。戦争において、兵士は「人間」ではなく、戦争に勝つための材料としての「兵器」のような位置づけだったことを痛感しました。

中山: 義肢や足を失った人用の自転車の展示、軍医・衛生兵の言葉や道具が印象に残っています。戦時中は十分な医療器具や薬品がない状況で治療を行う必要があり、それだけひっ迫した状況だったのだと思います。また、自身も感染症にかかってしまうリスクがあり、敵国の兵士と戦っていないときでも死と隣り合わせの恐怖があっただろうと感じました。

【千鳥ヶ淵戦没者墓苑】 東京都千代田区三番町2
*「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」: 昭和34年に国によって建設され、大東亜戦争の戦没者の遺骨を埋葬してある墓苑。墓苑は日本に持ち帰られた遺骨において、名前のわからない戦没者の遺骨が納骨室に納めてある「無名戦没者の墓」であるとともに、この墓苑は先の大戦で亡くなられた全戦没者の慰霊追悼のための聖苑である。令和4年7月19日現在、370,267柱の遺骨が奉安されている。(ご遺骨は軍人・軍属・一般邦人を含む)

佐藤: 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、今回この機会に初めて知った場所でした。当日は私たち以外に殆ど訪れる人がおらず、管理者やパンフレットに載っている人もご年配の方ばかりでした。戦争やその影響を身近に感じたことがない若い世代にとっても、無名戦没者たちの存在を後世に残し、してはいけない選択を二度としないために、この墓苑が「ただ存在するだけ」ではいけないと思います。

中島: 沖縄の「平和の礎」を思い出しました。それは平和祈念公園の中にあり、多くの人が平和祈念公園の資料館などの他の施設とセットで見学すると思います。一方で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑は資料館のようなものはなく、お墓だけでした。ここに来た人が戦争への反省や平和の祈りができるよう、沖縄の平和祈念公園のように資料館を設ける必要があると考えました。

緒方: 墓苑の管理をされている方に声をかけられたことが印象に残っています。自分たちの活動を応援してくださって非常に嬉しかったのと同時に、大学生のような若い人がここに来ることが嬉しいという主旨の発言から、若者からの墓苑の認知度の低さを感じました。平和関連の施設は広島・長崎・沖縄が多いと勝手に決めつけていたので、東京にもたくさん施設があることを初めて知りました。自分の住む地域で戦争に関する施設を探してみると、実は昔にこんなことがあったという新たな発見があるかもしれないですね。

中山: 私も千鳥ヶ淵に墓苑があることを知りませんでした。私たちが生きている日本があるのは、墓苑に埋葬された人々がいたからだと思っています。この場所を知って、参拝できただけでも行った意義があったと思います。

【今回の見学から「戦争をしない」ために何が必要か】

鈴木: 戦争を起こさせないために一番重要なのは教育だと思いました。教育は、戦争を「止める」即効性はありませんが、教育によって戦争が起こらない世界を作ることはできると思います。その中で、今すぐ「止めよう」となると、一番強い力を持っているのはメディアだと思います。

今村: 私も鈴木君と似ていて、「知る」ことが大切だと思います。昭和館に行き、戦時下の女性や子供の生活を知りました。今まで私が行っていた戦争の勉強は、戦争画や戦場の映像の鑑賞でした。この勉強会は、戦争を違う角度から学ぶきっかけになりました。当時の生活を知ったから、絶対に当時のような状況にはなりたくないと思ったし、させないようにしようという意識の向上にもなりました。私たちがこのような座談会を発信することも、他の誰かの「知る」ことへの手助けになると思います。

佐藤: 戦争経験者の体験や証言を尊重する態度が必要だと感じました。終戦から八十年近くが経った今では、戦争を経験した人々の年齢は高く、当事者から新たに証言を引き出すのは難しいと思います。記録が曖昧なものや、戦争で亡くなってしまった人々が残せなかったものを後世に伝えていくことができるのが証言だと思います。だからこそ、戦争を知らない世代の態度が重要だと考えます。

山口: 戦争をなくすためには、戦争を仕掛けようとする国に戦争の悲惨さを伝えていく他ないと思います。どんな理由があっても絶対に戦争という手段を使うべきではないということを訴えるべきだと思う。「千人針に込められた思い」のような細かいところに焦点を当てた映像作品などを作り、世界に向けて公開することが有効ではないかと感じました。

中島: 戦争をしないために個人ができることの第一歩は、政治に関心を持つことだと考えます。今回のロシアのウクライナ侵攻のように、戦争は一部の独裁的な考えを持った人が始めてしまう。その政治家がふさわしいかどうか、投票という形で政治に参加することで、自分の考えを示すことができます。また、現在はSNSが発達しています。政治家に対して、SNSで自分の意見を発信し、世論を形成することが現代では可能になりました。

中山: 戦争がどのようなものなのか学び、戦争に対する意識を変える必要があると思います。今回多くの展示品や言葉を見聞きして、教科書で学んだ知識だけの戦争とは違いました。戦争を経験した方々の言葉を聞いただけで、恐怖を感じてしまいました。学校で教えられるもの以上のことを学ぶことで、一人ひとりの意識が変わり、戦争を止めることの手助けになると思いました。

緒方: なぜ最近このニュースが多いのか、なぜ政府はこんなことをするのか、この変更は本当に必要なのかといった、自分の身の回りで起きていることに対する「違和感」を大切にすることが必要だと思います。様々な情報が氾濫してデマも多い中、小さな違和感をキャッチし、情報の意図を考えることが重要ではないでしょうか。