私学は創立者の教育に対する情熱と理想を基に創設されたもので、その心が「建学の精神」であり、いかなる時代においても変わることなく継承されるべきものです。本学園の建学の精神は、創立者松前重義(1901~1991)の思想と人生に深い関わりを持っています。
生い立ち
松前重義は熊本県上益城郡大島村(現在の嘉島町)に生まれ、小学校5年生のとき熊本市に移り住みます。生まれ育った農村と違って、市内では夕方になると一斉に電灯がともり、少年時代の松前はその美しさに驚き、「なぜつくのだろう」とその不思議さに素朴な疑問を抱きました。後に松前は、この少年時代の体験が「電気」の分野を学ぶきっかけになったと語っています。
そして県立熊本中学校(現・熊本高校)から熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)、東北帝国大学(現・東北大学)工学部へと進みますが、松前の青春時代は、中学時代に兄の影響から始めた柔道などのスポーツに熱中する日々でした。その一方で、大学では電気工学を学び、卒業研究は電磁気学の権威である抜山平一教授のもとで、後のトランジスタやICへと発展する真空管の特性などについて研究しました。
日本の科学技術発展のために──技術者運動を展開
大学を卒業した松前は、国の事業に携わりたいと希望して逓信省(後に郵政省と現在のNTTに分かれる)に技官として入省しました。しかし、役所の生活は無味乾燥で事なかれ主義が蔓延していました。当時の日本の社会は指導者として法学部出身者を最優先する風潮が根強く、一般的に文科系と理科系の人との間には理解のうえで深い溝がありました。松前はこうした社会の現実を憂え、国家の正常な発展のためには文科系と理科系の相互理解が不可欠であるとの思いを強くします。同時に、世界や社会の動向に無関心になりがちな技術者の意識改革と地位の向上を訴える技術者運動を展開しました。
また、松前は当時の日本の科学技術が外国の技術に多くを依存していることに対し、国産技術開発の重要性を説き、自らもその研究に努めました。
情報化時代への曙──無装荷ケーブル通信方式の発明
20世紀はじめの通信技術の課題は、より遠くへ、より速く、より大量に情報を送ることにありました。電話通信の分野では、アメリカ・コロンビア大学のピューピン教授が開発した装荷ケーブル方式が世界の主流でした。これは、電流の減衰を防ぐため電話ケーブルの途中に装荷コイルを挿入するものでしたが、この方式は音声が不明瞭、一回線で一通話しかできず不経済であるなど、様々な欠点がありました。
そこで松前は、篠原登らとの研究成果をもとに、既成概念にとらわれることなく装荷コイルを使わない新しい通信方式を開発します。これは、長距離ケーブルの途中に増幅器を設置して電流を増幅させ、高周波の電流に音声を乗せて送る搬送方式で、装荷ケーブル方式の欠点を一気に解決し、しかも一回線で複数の通話ができる多重通信を可能とするものでした。これが世界的にも有名な無装荷ケーブル通信方式です。
やがて国と民間企業が協力する国産プロジェクト研究によって実用化が進み、1939年日本と中国、約2,700キロの間が無装荷ケーブル通信方式で結ばれました。その後、この通信方式は世界の主流となり、今日の情報化時代を開くきっかけとなりました。
教育への志を立てる──内村鑑三との出会いとデンマーク体験
逓信省時代に松前重義は、新しい通信技術の開発に従事するなかで「人生いかに生きるべきか」について思い悩み、内村鑑三(1861~1930)が主宰する聖書研究会や講演会などに通いました。内村は無教会主義を唱えたキリスト教思想家で、その『デンマルク國の話』、『後世への最大遺物』などの著書は当時の青年たちに大きな影響を与えました。
そこにおいて松前は、内村の思想と人類の救済を説く情熱的な訴えに深く感銘しました。また、そのなかで松前は、プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させた近代デンマークの歩みを知ります。とくに、その精神的支柱となったN.F.S.グルントヴィ(1783~1872)が提唱する国民高等学校(フォルクホイスコーレ、国民大学とも訳す)の姿を知り、そこに教育の理想の姿を見出します。
「生きた言葉による学校」「民衆のための大学」といわれた国民高等学校の教育は、教師と学生が生活を共にし、自由に社会を論じ、哲学を語り合う活気に満ちた学校でした。1934年に松前は、その教育事情を視察するため、デンマークを訪問しています。そこで得たものは、後に松前が述べているように、学校とは「歴史観、人生観、使命感を把握せしめ、以て個々の完成に努力することにある」べきだということでした。そして、この教育こそが豊かな酪農王国デンマークを築く原動力になっていることを目の当たりにしたのです。この体験を通して松前は「国づくりの基本は教育にあり、教育を基盤として平和国家日本を築こう」と決意しました。
東海大学の原点──望星学塾の開設
松前はかねてから妻信子や松前の理想に共鳴する友人の篠原登、大久保真太郎など数人の同志と共に教育研究会という小さな集まりをもち、シュバイツァーやペスタロッチなどの人生・思想を研究していました。そして松前は、無装荷ケーブル通信方式の発明により、電気学会から「浅野博士奨学祝金」を受けると、これを基金の一部として念願の教育事業を開始するため、1936年に東京・武蔵野に望星学塾を開設したのです。そこでは、デンマークの国民高等学校の教育を範としながら、対話を重視し、ものの見方・考え方を養い、身体を鍛え、人生に情熱と生き甲斐を与える教育をめざすもので、聖書の研究を中心として日本や世界の将来を論じ合う、規模は小さくとも理想は大きく、活気ある学習の場でした。この塾が今日の学校法人東海大学の母体となったのです。
平和への信念を貫く──二等兵として激戦地へ
やがて第二次世界大戦が始まると、松前はわが国の生産力などの様々な科学的データをもとに戦争の早期終結を唱えたため、通信院工務局長(当時のわが国における通信部門の最高責任者)という国の要職にありながら、42歳で兵隊の位で一番低い二等兵として南方の激戦地に送られました。そのため望星学塾の活動も停止せざるを得なくなりました。
しかし九死に一生を得て帰国すると、やがて技術院参議官となり、原爆投下の翌日には広島の現地調査に入って、原爆の惨状を目の当たりにしました。そして終戦後すぐ逓信院総裁に就任し、廃墟となった日本の通信事業の復興に努めます。一方、1943年に開設した航空科学専門学校を前身とし、文科系と理科系の相互理解と調和を基本に掲げて東海大学(1946年旧制東海大学、1950年新制東海大学となる)を開設しました。
世界の中の日本を思う──科学技術立国をめざして
松前は、日本の科学技術政策の貧困を憂え、技術者の地位向上や国産技術の開発を訴え続けてきました。その成果の一つが戦前の無装荷ケーブル通信方式の発明であり、また、戦後の科学技術庁の設立です。
松前は、天然資源に恵まれない日本が世界に貢献していくには、独創的な技術開発による科学技術立国の道を歩むほかはない、と考えていました。しかもその科学技術は人類の幸福のためにあるべきものだ、との思いは広島の原爆調査などの体験からますます強くなっていました。もはや科学技術は、扱い方を間違えれば人類を破滅に導くほどの力を持つに至ったのです。
そして、国の行方も人類の将来も、これに携わる人間の思想に左右されることを身をもって体験した松前は、かねてからめざしていた「思想を培う教育、文科系と理科系の相互理解をめざした教育」を東海大学のなかで実践していきます。
新しい出発──公職追放など様々な苦難のなかで
戦後の松前の歩む道は多難でした。当時日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)の命令で、戦時中に国の要職にあったという理由で1946年には公職追放(重要な公職から除外する処置)になります。このため、発足したばかりの大学の運営に携わることもできなくなりました。ここに至り東海大学は、戦後の価値観や社会的・経済的・思想的混乱のなかで松前という柱を失い、一時は廃校の危機に瀕するほどになりました。しかし、松前の理想に共鳴する多くの人々によって大学は支えられ、再建への努力が続けられます。そして1950年追放から解除されるや、松前は直ちに学園に復帰すると、獅子奮迅の活躍で理想の学園づくりに邁進し、今日の総合学園を築き上げてきたのでした。
希望を星につなぐ
松前が教育に託したものは、人類の幸福と平和の実現に向かって、明日の歴史づくりを担う人材の育成にありました。
そして松前は全ての若人に向かって語りかけます「若き日に汝の希望を星につなげ」と。この希望とは、高い理想や大志を表しています。そしてこの言葉は、内村鑑三の心の師であるクラーク博士の有名な「少年よ大志を抱け」と同じ精神の表現であり、若人への時代を超えたメッセージです。
現代社会の変化は激しく、私たち人類の未来にも様々な難問が横たわっています。だからこそ松前が示した高い理想をもって未来をみつめていくことが、いま私たちに最も求められているのです。
松前重義をよく知るための参考図書
松前重義著作集(全10巻)
- 松前重義著作集(全10巻)
- 『発明記』
- 『デンマークの文化を探る』
- 『科学の進歩と唯物史観』
- 『新科学時代の政治観』
- 『科学は歴史を変える』
- 『二等兵記』
- 『科学・技術・思想』
- 『わが宗教観』
- 『対談集』
- 『詩歌集』
- 『現代文明論』、「青春に生きよう」松前重義望星学塾講演集、
- 『改訂版電気通信概論』(松前重義・北原安定共著)
※以上東海大学出版会刊
- 『松前重義 わが昭和史』(松前重義・白井久也共著/朝日新聞社刊)
- 『武道思想の探究』(松前重義編)、
無装荷ケーブル
無装荷ケーブル通信方式は、従来の通信システムの大転換であったため、ケーブルの構造の根本的な改造にはじまり、増幅器や真空管、材料など広範囲にわたって新しい技術開発が必要となりました。松前重義は、これを外国の技術に頼らず全て国産技術によって開発し、通信機器の国産化への道を開きました。
内村鑑三
内村鑑三(1861~1930)は、「Boys,be ambitious!」(少年よ大志を抱け)の言葉で有名なクラーク博士の精神が強く残る札幌農学校に学び、その影響からキリスト教の洗礼を受け、従来の教会を中心とした信仰のあり方に対し、聖書を中心とした無教会主義を唱えました。毎週日曜日に開かれた「聖書研究会」はその実践の場であり、松前重義が参加したのは1925年頃のことです。
N.F.S.グルントヴィ
N.F.S.グルントヴィ(1783~1872)は、デンマーク復興の父といわれるキリスト教思想家、詩人、教育者。自由主義、国民主義の気運が高まる19世紀のデンマークで、形骸化した国教会や学校のあり方を批判、民衆の言葉による生きた教育を実践する国民高等学校運動を提唱しました。国民高等学校は現在、デンマークに約100校もあり、17歳以上であれば無試験で誰でも学ぶことができます。